お祭りに行くと、小学生の僕がいた。

去年の秋、生まれ育った街の祭りに行った。最後に行ったのは僕が中学生か高校生くらいの頃で、かれこれもう二十年も昔のことになる。その祭りは二日間の開催で数十万人の人が訪れる、にぎやかで規模の大きなお祭りだ。実家に住んでいた頃、僕は街をあげてのこのお祭りに毎年のように駆けつけていた。

祭りは、街の中心部から同心円状に広範囲にわたって催され、どこを歩いても、激しい人だかりになる。原宿の竹下通りの人混みが延々とつづくような光景といえばイメージが浮かぶかもしれない。その人混みをかき分けるように何台もの山車が巡行し、笛、和太鼓、鉦の祭囃子がピーヒャララとにぎやかに鳴っている。沿道には「チョコバナナ」「お好み焼き」「たこ焼き」「ベビーカステラ」「りんご飴」と見慣れた屋台が隙間を空けずに立ち並んでいる。僕はその祭りの風景を目にして郷愁の念を感じずにはいられなかった。

街の様相は栄枯盛衰のごとく変わっていく。年に一度、正月の時に地元に帰ると僕の生まれ育った街が、毎年、少しずつ、人間の細胞が日々生まれ変わるように変化していることに気がつく。新しい店ができたり、その反対に、長くつづいていた店がなくなったりしていた。何度も遊びに訪れていた駄菓子屋のシャッターが二度と開かないように閉まっていると、なんだか僕の思い出も一つ消えてしまったようで悲しくなる。

でも、祭りの光景は、あの日の光景とほとんど変わらない。ときには見知らぬ屋台もぽつぽつと見かけることもあるけれど、ほとんどの屋台は子どもの頃からあったものだ。祭りには、あまり栄枯盛衰というものがないのだと思った。

僕はひさびさの祭りで子どもの頃にあった出来事を思い出していた。祭りというものは、思い出がたくさん詰まっている記憶箱のようなものかもしれない。時を超えてその場に立つと、遠い昔の、記憶の蓋が開く。