愛の告白

えんえんと長く降りつづく梅雨のようにホテル暮らしが続いている。来る日も来る日も、朝起きたら仕事に出かけ、終わるとホテルに戻ってくる。こうした生活の中で唯一と言ってもいい楽しみは食事になるはずなんだけど、会社から外食禁止令が発令されているために毎食お弁当で済ませなければならなかった。

出張当初は、こうした非日常生活も、たまには悪くないと思えたが、コロナ禍のいま、空いた時間にどこか観光に出かけることができるわけではなく、地元の名産を味わえるわけでもなく、終わりのないキャッチボールのように、ただただホテルと仕事場の往復なので、二、三日も経ってくると早く自宅に帰りたいなあと思うようになっていた。

しかし、この空疎で渇いた出張生活の中で「これは好きだな」と楽しみにしていることの一つがコインランドリーです。数日分の溜まった衣服をホテルの近くにあるコインランドリーに持ち運び、大型のドラム式の洗濯乾燥機にほいっと放り込み、50分ほど時間を潰すと、まるでできたてほかほかの肉まんを提供されたように、ふっくらしたあたたかな衣服が出来上がっている。

冷え切った雑巾のような衣服が、洗濯乾燥機の重厚なドアを開けると、窯で焼いたピザのようにほくほくに生まれ変わって僕の前に現れる。そっと手を触れたときのさわり心地は抜群で顔にぎゅっと埋めても気持ちがいい。なんとも言えない至福が胸に押し寄せ、無味乾燥化しているホテル生活にささやかな潤いをもたらしてくれるこの瞬間が僕はとても好きになっています。

今の不幸は、後の幸せかもしれない。

薄暮が迫り、赤色に空が染まり始めたころ、中学校の校門で野球部の部員がユニフォームから制服に着替えている光景に出くわした。丸刈り頭の学生たちが談笑しながらユニフォームを脱ぎ、白シャツに着直している。

その青春の一ページともいえる光景を目にしたとき、僕の頭の中に在りし日の光景が蘇ってきて、自分も部活に打ち込んでいたあの頃に戻りたいなと郷愁の念に駆られた。

僕はバスケ部に所属していたがとにかく厳しかった。今では問題になると思うけど、試合でミスをすると頬にひどく強い平手打ちをされたり、足で蹴られたこともあり、そうした体罰を含めた厳しい指導に嫌気がさすこともあった。毎日何キロも走らされ、へとへとになるまで鬼のように練習していた。部活に行くことが億劫になったときもあったかもしれない。

でも、いま僕はあの頃に戻れるものなら、たとえ血反吐吐くほど辛い練習が待っていたとしても、強力なビンタをされても、戻ってみたいと思う自分がいる。指導は厳しかったが、それでも自分を含め、チームが強く、うまくなっていくことに楽しさを覚えたり、大会で勝利すると努力が報われたようで嬉しさがこみ上げてくることもあった。

自分の置かれている状況がいいかどうかは、そのときだけではわからないんだと思う。「失ったあとに大切なものに気づく」という格言があるけれど、これは「もの」だけの話ではなく、「こと」にも当てはまるんだろう。いま楽しくない環境に身を置いていたとしても、きっと、どこかに幸せはあるのだ(まったくないかもしれないけど)。

作った料理のうまさよ。たとえ自炊のへたっぴ料理でも。

最近一週間ほど、朝・昼・夕のご飯をすべて弁当(あるいはおにぎりやパン)という食生活を送っている。概して根っからのお弁当好きなわけではなく、どちらかというと渋々である。では、どうして三食弁当というトリッキーな生活を送っているかというと出張のためです。ホテル暮らしの日々なので自炊をする機会はないし、コロナの影響で会社から外食を禁止されている(ホテルの朝食も禁止)。そのため、有無を言わさず弁当生活をせざるをえないのです。

はじめの頃は、割引されたお寿司を買って食べたり、大好きなカツ丼を食べたり、自分の欲望のままに食を楽しめる弁当生活も悪くないなあと思っていたけれど、それも週の後半になってくると次第に喜楽も薄まり、むしろ栄養バランスを気にしだす始末。

そうした状況の中、昨日、一週間ぶりに自宅に戻り、料理を作った。帰りがてら、行きつけのスーパーで鳥の胸肉やトマト、ほうれん草に卵などを買い上げ、自宅のキッチンでそれぞれかんたんにカットして適当に調味料を混ぜながらフライパンで炒めた。もちろん、料理をする前に白米も炊いておいて、出来立てのご飯を楽しめる準備を整えた。

久しぶりに食べた自炊の料理に感動してしまった。僕は自分ではないけれど誇れるほどの料理の腕はない。むしろ圧倒的にヘタッピ料理人である。それでも、自分の作った簡易な料理に感動してしまった。やはり火に浴びた直後の料理はうまい。ほくほくふっくらのご飯に適度に温かい肉野菜の炒め物。それらが喉をとおるたびに、胸がジーンとしてしまった。

弁当の出来が悪いというわけではない。お弁当というものがこの世にあるおかげで料理が面倒なときや、外食がむつかしいときでもおいしいご飯にありつけるありがたい存在だ。でも、弁当生活を送ることでシンプルに出来立ての料理はうまい。という真理に僕は気づいてしまった。十月は月の2/3以上出張なので、自宅にいるときはできるだけ自炊をしようと思う。

服探しは、宝探しと似ている。

服の買い物というのは、いくつになっても胸が高なってしまう。もちろん、すべからくすべての買い物中にそうなるわけではない。たとえばアウトレットモールに訪れたときや、ショッピングモールで大セールを開催しているときなど、リーズナブルよりさらにお求めやすい価格になっているときの服探しは、お預けを喰らった犬のようにふんふん鼻をふかしてしまうくらい、ちょっと高揚している自分がいる。

そのモードに入っているときの僕は、服探しというよりも宝探しの心算で手当たり次第に探索していく。どこかに個性的で瀟洒なシャツやパンツは隠れてないかな、とまだ見ぬお宝の発見を求めて衣服探検隊の隊長(他に隊員はいないけど)としてファッションジャングルの中を歩いていく。

運よくお宝を発見できたときは、小さくない熱狂的興奮を心に宿し、一刻も早くレジに持っていって自分のものにしたい衝動に駆られる。が、ここで功を急いではいけないと自分を落ち着かせる。とにもかくにも試着をしてからだ。どれほどデザインが素晴らしく、ファッション性が高いものでも、自分に似合わなければそれはゴミ(と言ったら失礼ですが)も同然である。なので、僕は気に入った服を見つけたときは、ほぼ必ず試着をする。試着をして「これ似合っているな」と判断しても、買うと決意するには至らない。そこでふたたび少考する。

気に入った服があって、試着すると似合うことがわかって、それでもまだ何を迷うことがあるんですか? と思うかもしれません。でも僕はそこで一拍冷静になって考える。その服が僕の持っている他の衣類と似合うかどうかを。

たとえば素敵なシャツを見つけたら、自分の持っているパンツや靴下、靴とうまくかちっと合わせることができるのか、想像力を働かせてイメージする。そしてもしうまい組み合わせがほとんど見つからなかったら、それがどんなに洒落た服でもきっぱりとあきらめる。そういうときに無理をして手に入れても活躍できる機会はほとんどないとわかっているから。

先に述べたように僕は衝動買いするようなタイプではありません。購入に至るまでにいくつかテストがあり、わりにシビアに判断します。だからこそ、なおのこと、服探しは宝探しのような気がするのだ。おいそれと出会えない宝の服を探して僕は週末旅に出る。

食という、日常の感動

ふだんの生活で感動する瞬間に立ち会うことはそうあることではないと思う。仕事をしているときに胸に熱い思いがこみ上げてくる瞬間はほとんどないし、サッカー選手がゴールを決めたときのように、あるいはサヨナラホームランを打った時のように興奮して思わず手を振りかざすこともない。自身の生活を振り返えると無感動に淡々と日々を過ごすことが多い。

思えば、学生時代の方が感動や心震える瞬間は多かった。所属していたバスケ部の大会で逆転勝利を掴んだり、友人のいる野球部が甲子園出場を決めたり、好きな女の子への告白が成功したり、文化祭のクラスの出し物がうまくいったり、運動会で自分の組が優勝したり、日々の生活の中でも、ドラマの主人公のように感情のボルテージが上がることがしばしば起こっていた。

学生生活の卒業とともに、そうした感動や興奮に出会う頻度は少なくなる。それはきっと学生の頃のように自分の参加するイベント(お祭りごと)がひどく減ることと無関係ではないだろう。社会に出たあとの生活は、スポットライトは当たる瞬間がそうそう巡ってこなくなる。日々を淡々と無感動に生きていくことが多くなる。

そうしたいささか味気ない日々に感動や興奮を味わせてくれるのが食だ。舌鼓を打つほどの美味な料理にありつけた日には、ちょっと幸せになれたり、感動させられる。立派なお店で出された料理に限らず、自分の作った料理でさえ、おお、こりゃうめえじゃん。とその出来栄えに自画自賛し、小さな感動を覚えることもある。

食というものは人間の三大欲求の一つで日々欠かせないものだ。そうした欲望を満たしてくれるものであるとともに、無感動な日々に感動を味わせてくれるものとしても、とてもありがたい存在だと思う。おいしいものに出会えるととても幸せな気持ちになるけれど、それはただおいしいから、という理由だけではないのかもしれません。

音楽が必要だ、この世界には。【20200920 スペアザ@日比谷野外音楽堂】

SPECIAL OTHERSのライブに行ってきた。
本当なら今年の春先と初夏にライブがあり、そのチケットも確保していたんだけど、ご存じのようにコロナの影響で全てのライブが延期となっていた。そんな折、ついに、待ちに待ったライブの開催である。

会場は日比谷の野音で、つまり野外だ。座席も指定席なので、ソーシャルディスタンスを保った席位置を用意することができる。こうした事態におけるライブ会場として理想的な場所だと思った。

開演の時間が迫るにつれ、胸が高まってくる。ひさびさにスペアザの生演奏を浴びることができるという喜びもあるし、今日のセットリストはベスト盤に近いものになるんじゃないか、と予感めいたものがあった。

本日のライブはツアーではない。そしてコロナが完全に収まっていない中での決行である。勇気を持って参加する観客のために、来てよかったと思ってもらえるセットリストになると思ったのだ。

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開演を告げるSEとともにメンバーが登場し、演奏が始まった。しかし、誰一人、観客が立たない。みんな座って聴いている。どうしてだろう?と思ったが、もしかして「立席は禁止」とHPに注意事項が書かれていたのかもしれない。スタンディングで聴けないことに少々残念になりながら、僕も着席スタイルで観賞していた。スペアザの音楽は体が自然に踊り出すものが多い。曲のリズムに乗りながら、ダンスをするのがとても心地よいんだけどな。まあ、ライブを味わえるだけでも有り難いと思うしかない。

そう思っていたら、三曲目に入る前に、スペアザの芹澤さんから「適切な距離を保てば立って聴くのも大丈夫ですよ」とみんなに呼びかけてくれた。僕らは待ってましたと言わんばかりに、すくっと立ち上がり、スペアザの音楽を浴びるのに一番いいスタイルで聴くことができるようになった。

9月の下旬に差し掛かるこの日は、残暑厳しい暑さもどこかに消え、適度な風が吹き、とても心地いい会場になっていた。

5月にリリースされたアルバムのタイトルチューンである「WAVE」が流れたあたりから、僕のテンションは最高潮に上がっていく。ほんとに音楽はいいものだ。自粛期間のあいだ、テレワークになっているあいだ、音楽は日々の生活のお供だったけど、やっぱり外で、生演奏で、オーディエンスとともに聴くことはとても素晴らしいものだと胸がジーンとなった。

スペアザの一・二を争う人気曲「AIMS」と「Laurentech」が立て続けに流れる。僕はかれこれ9年くらい彼らのライブに通っているけど、この2曲が一度のライブで同時に演奏されるのは珍しいことで、おそらくこの日この場にいたほとんどの観客は興奮したことだと思う。この状況でライブができたこと、この状況で大勢の観客が駆けつけてくれたこと。そうしたことに対する、スペアザからの感謝の気持ちのようなものを僕は受け取った。

そしてアンコールは絶対にこれしかないだろうと思っていた「Ben」。この曲のほかにアンコールにふさわしい曲を僕は知らない。

夕陽が沈み、夜の帳が下りる中、エンディングにふさわしい曲がはじまった。この曲は前半と後半で構成ががらりと変わる。前半は、ジャズセッションのように四人のメンバーが各々楽器を高度な次元でセッションし合う。 ギター、キーボード、ベース、ドラム、それぞれの楽器が、決められたコードから外れながらも、絶妙に絡み合っていく。

そして後半。ドラムの宮原さんの素晴らしいソロ(ドラムだけで聴かせるってすごいと思いませんか?)から、ベースの又吉さんがここしかない間で入り込み、そして、キーボードの芹澤さん、ギターの柳下さんが再び揃うと、物語のクライマックスかのように曲のテンションは一気に上がり、観客のボルテージも最高潮に達する。ほぼ全員が立ち上がり、手を振りかざし、飛び跳ね、気持ちよさそうに踊っている。僕も多幸感の最先端にいるかのように、胸を高鳴らせ、彼らの最高の音楽を全身で浴び、体から喜びを発していた。

今日のライブはセットリストといい、彼らのプレイといい、会場の環境といい、これまでに行ったライブの中でも、ベスト3に入るくらいに感激したものだった。

行ってよかった。ほんとに。コロナ禍の世界にも、音楽は必要だと全身で感じることができた。こういう多幸感あふれる時間は他のものではなかなか味わえない。むしろ、音楽以外にちょっと思い浮かばない。

音楽はとうの昔に恋に落ちていたけれど、今日また心を撃ち抜かれてしまった。

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人生は、ボーナスステージだ。

誰かと話している場で「人生はボーナスステージだ」をぼそっと口走ると「ほう。その心は?」と興味深い眼差しで尋ねられることがある。

遠い昔に「人生とはなんだろう?」と天を仰ぎながら考えたことがあって(おそらく、多くの人が一度は考えたことのある問いだと思う)その時にたどり着いた僕の一つの答えが「人生ボーナスステージ論」だった。

哲学的な話ではないし、たいそれた論でもない。シンプルにこう思ったのだ。僕らはみんな現世界の門をくぐり抜けるまでに、数億ものライバルを打ち倒し、勝ち抜いてきたわけである。熾烈な競争をいくたびも勝利し、強者をねじ伏せ、この世に参加できるチケットを手に入れたのだ。

つまるところ、この世は、勝ち抜いたものたちのご褒美であり、ボーナスステージなんだな、と若かりし僕は(いささか強引ではあるけれど)一つの答えを導きだしのたです。今でもその考えは、僕の心の深淵から剥がれることなく残っている。せっかく手に入れたご褒美なのだから、楽しく生きたいなあと思うのです。