半沢ロスからのアルルカンと道化師

自分で言うのもなんですが、僕はわりとミーハーな気質を持ち、世間で流行っているものがあれば、手元に引き寄せて味わってみたくなるタイプです。ワンピースは、全巻ぬかりなく集めているし、最近では、Nizi Project(虹プロ)も、東京編から韓国編まで全話観賞している。幼気な少女たちの努力に胸を打たれ、J.Y.Parkさんの厳しくも愛のある指導に、指導者の姿勢というものを学び、すっかりNiziU(とJ.Y.Parkさん)のファンになっている自分がいる。

そして、半沢直樹です。最終回の視聴率は32・7%と、テレビ離れが叫ばれいてる昨今で、とてつもない数字を叩き出したお化けコンテンツですが、僕もご多分に漏れず、前作からの大ファンで、1話から放送開始時間ぴったりにテレビの前に居座って鑑賞していた。その半沢直樹のドラマも、先週、最終回を迎えてしまった。最後のひと口のパンケーキを食べてしまったように、もの寂しさを感じずにはいられなかった。

そうした「半沢ロス」(というのはいささか大げさかもしれないが)のときに、手に取ったのが「半沢直樹 アルルカンと道化師」である。半沢直樹の小説の新刊です。これがすこぶるおもしろかった。もちろん謎めいたストーリーに、悪代官をぶっ叩く半沢節もよかったんだけど、何より、半沢直樹という人物について、深淵に触れられた気がして、とても興味深く楽しむことができた。

本書を読んでいると、半沢直樹という超一流のバンカーとあぐらをかいている凡人バンカーの違いを(たとえ小説というフィクションの世界であっても)感じ取ることができる。凡人バンカーは「誠心誠意尽力いたします」と取引先に口で伝えるが、行動はしない。ただ言うだけなのだ。

一方で、半沢直樹は、本当に誠心誠意尽力する。客先に出向き、難題を解決しようと出来る限りのことをする。自分のためではなく、出世のためでもなく、他人のために、寝食を惜しんで(いるかのように)、身を粉にして働くのだ。

上司が悪巧みをしたら、その全貌を知ろうとし、その証拠を得ようとする。そして、間違った行為に対しては、毅然とした態度で、いや、鋭い刃で斬りつけるようにぶった斬る。

その正義感溢れる行動は、敵を増やすが味方も多くつくる。やられる方としては自分たちの浅ましい手柄を無きものにされるわけだから、面白くないのも当然で、恨みは増幅していく。だが、人のために懸命に行動する半沢は、感謝されたり、感心されることが多く、必然的に部下もついていく。

半沢直樹という小説(ドラマ)は、タイトルの通り、半沢直樹というキャラクターが見事だからこそ、ここまで惹かれるのだろう。もちろん、ストーリーだって面白い。悪巧みしている奴らを木っ端微塵に捻り潰す様はスカッとする。だが、それも、半沢直樹というキャラクーがいてこそだろう。

本作「半沢直樹 アルルカンと道化師」は、半沢直樹のキャラクター性がよく浮き出ていて、だからこそ、面白く、そして傑作だと思った。ドラマの時と同じように、いや、ひょっとしたらそれ以上の興奮を本作では味わえた。

読み終えた後、半沢直樹の世界をもっと味わいたいと思い、半沢直樹1と2を買ってしまいました。2004年に発売された小説で、もう16年も前に刊行された本ですが、楽しく読めています。ドラマ化されていなかったら、おそらく手に取ることはなかっただろうと思う。そう思うと、まだまだ面白い小説は、巷に溢れているのだろうなあ。

ドンドンドン‼︎

友人とその息子のジョージくんと郊外の小さなショッピングセンターで遊んでいるときのことだった。ジョージくんがゲームコーナーでポケモンをプレイしているときに、下腹部のあたりに尿意を感じ、友人に「トイレに行ってくる」と告げ、その場を離れた。

すっきりしてトイレから出、他の売り場を見てまわりながら、ゲームコーナーに戻ると、二人の姿がなかった。どこに行ったんだろう? とポケットからスマホを取り出してLINEを確認するが、友から移動した旨の連絡はない。とりあえず、キョロキョロと辺りを見まわしながら、そのフロアを散策するが友人とジョージらしきシルエットは見つからない。もしかしたら彼らもトイレに行ったのかもしれない、と思い、のぞきに行くと、ジョージくんの声が聞こえてきた。しかも、どういうわけか僕の名前を叫んでいる。

「ここにいるよ」とトイレに入って行ったら、ジョージくんは大便器の扉を激しくドンドンドンドン叩きながら、僕の名前を叫んでいた。おそらく、いや、間違いなく、僕がう○ちをしていると勘違いし、面白がって叩いていたのだろう。なんとも恐ろしい子どもである。

そういう状況で、僕がひょっこり入り口から現れたものだから、友は顔面蒼白し、ジョージくんは「あれ?」という顔をした。

トイレの中に入っているのは僕ではない。ではいったい誰だ? 僕らの知らない赤の他人である。慌てて、友人は息子に「やめなさい」と言い、トイレを後にした。「すみませんん」とひと言添えて。

もし僕がトイレの中に入っていて、知らない子どもから、身に覚えのない名前を叫ばれ、戸をドンドン叩かれたら、出るものも出なくなるだろう。なんて、むごいことをしてしまったのだ。なんだか、自分までひどく申し訳ない気持ちになって、「すみません」と謝ってトイレを後にした。よい子のみんなは、トイレを叩いちゃいけません。

えんぴつだって怒ってる。

イライラしているときに
えんぴつを手に取ると
ザッザッと殴り書きのような感じで
乱暴に扱ってしまうときがある。
で、ボキッと折れてしまうのだ。

そうなると、気が短い僕は
「クソ鉛筆め!この不良品が!」と
条件反射的に怒ってしまう。
でも、もしかしたらえんぴつも僕に対して
「お前の使い方が悪いんじゃ!
お前のほうこそ、不良品じゃねーか」と
怒ってるかもしれない。

ケンカばかりのこんな関係じゃ、
えんぴつだって持ってる力の100%を
僕のために使ってやくれませんよね。

「いつもありがとう」なんて気持ちを、
ほんの数mmでも持ってれば、
きっとえんぴつさんも
「俺のほうこそ、丁寧に使ってくれてありがとう」と
思ってくれるかもしれないわけです。
人と人の関係だけじゃなく
人とモノの関係も、大事にしていかないといけませんね。

雨は街の洗浄です。

雨というやつは、
非常にやっかいで油断できない。
うっかり気を抜くと
買ったばかりの革靴は酒でも飲んだかのように
ふにゃふにゃになり、
肩から腕にかけては滴の大群がはびこっている。
ショルダーバッグの中にあるノートは
使いものにならない。
だから、雨が降ると憂鬱になる。

でも、雨は道にたまった砂ぼこりや、
ビルの壁に付着した小さな塵たちを、
シャワーで体の汚れを流すかのように
洗い流し、街を爽やかにする。

雨が上がって太陽が見えてくると、
気分がよくなるのは、
悩ましい雨がやんだ、
という理由だけではなさそうです。

さよならを言えるのは、それだけで幸せなことなのかもしれない。

約三年間ほど、ボクシングジムに通っていたことがありました。遠い昔の出来事ではなく、わりに最近のお話です。通い始めた理由は、当時の職場の先輩が通っていた影響もありますが、シンプルに「強くなりたい」(と口にするのも憚れる)思いがあり、今がその機会かもしれない、とジムの門を叩きました。

ボクシングの練習はとても楽しかったです。鏡の前でシュッシュと拳を繰り出す「シャドー」にトレーナーのミットを目掛けて強く拳を叩く「ミット打ち」、それから「サンドバック」に「縄跳び」、「筋トレ」など、一回の練習で約一時間半くらいの汗を流すのですが、仕事終わりに全身を激しく動かす運動は望外に気持ちよいものでした。また、通うほど、自分の成長が手に取るようにわかり、「強くなっている自分」に酔いしれてしまえるのも、のめり込んだ理由の一つだと思います。

そうして徐々に夢中になっていったボクシングですが、通い始めてから3年が過ぎたある日、退会せざるを得ない状況になってしまいました。理由は、当時の職場が移転することになったからです。通っていたジムは、職場から近い場所にあり、練習に行く時は仕事終わりにジムに寄って汗を流してから帰路に着いていたのですが、職場が全く別の場所に移ることになり、通うのが難しくなってしまったのです。

長かった冬が背を向けて消え去り、春の息吹が彩り始めた最後の練習の日。シャドー、ミット打ち、サンドバッグ、一つひとつの練習を頭と体に刻みこむように力の限りを尽くして拳を放ちました。いつも以上に強く、激しく、思い残すことがないようにボクシングのできる喜びを拳に乗せていました。

練習を終え、ロッカーで服を着替えてジムを後にするとき、トレーナーさんたちが集まって「おつかれさまでした‼︎」と、室内中に響き渡る声で僕を見送ってくれました。あの時のトレーナーさんの顔は今でも鮮明に覚えています。まっすぐ僕の方を見て、これまでの僕のボクシングへの愛に感謝するように最後の挨拶をしてくれました。

気がつけば疎遠になっている人たちであふれている人生で、別れの日があるというのは幸せなことなのだと思います。出会いの記憶はそれなりに思い出せますが、別れの記憶というものはほとんどありません。そのほとんどがお別れをすることもなく、会わなくなってしまっているからだと思います。別れのつもりもなく「またね」と別れた時が実は最後になっていた、という人がたくさんいます。そうした別れのない別れが普通になっている人生で、この最後の練習の日は、僕の数少ない別れの日として、記憶の大切な箱にしまってあります。

最後の練習を終えた日の帰り道、空から舞い散る夜桜はとても綺麗でした。

夏の独唱。

九月のおわりかけに
木立からセミの鳴く声が聞こえた。
いつもは合唱で聞こえてくる鳴き声も、
このときは独唱だった。

そのひとりきりのセミは、
強く高く大きくおもいきり鳴いていた。
ひとりだけの世界を謳歌しているように。
あるいは、世界に自分しかいないことを嘆くように。

ふだんは、うるさいと思ってしまう鳴き声も、
このときばかりは切ない気持ちが湧いてきた。
夏のおわりは、いつもしんみりする。

手には年輪がある。

荒れてる手、皮が厚い手、
指先だけが厚い手、爪に土が詰まってる手、
傷がある手、ペンだこがある手…。

満員電車に乗っていると、
つり革をつかむ手をたくさん目撃しますが、
その手から、年齢や人生が垣間見えることがあります。
荒れてる人は、飲食系や美容関係の仕事なのかなあ、
皮が厚い人は肉体関係の仕事なのかな、とか。

手は、体の中で頻繁に使うところだし、
それに顔と違って化粧をしません。
だから、その人が積み重ねてきたものが
如実に現れる気がするのです。
笑ったり、泣いたりしないけど、
手って、表情豊かですね。