人という景色にも、惹かれてしまう。

深夜、都内を走るタクシーの中で、
窓の外の夜景をぼんやり眺めていると、
なにやら喧嘩をしている二人組を発見。
寝ぼけまなこながら、
火花が飛びかっている二人の光景を追いかけはじめる。
タクシーで横切るその数秒間の出来事は、
意識的というより、
ほぼ無意識的に行っていたような気がします。

惹かれる景色というものは、
夜景をはじめ、夕日に星空、青い海など
いろんな景色がありますが、
人の景色もそうなんだと思います。

絶景と同じくらい、もしくはそれ以上に目を奪われる。
人の景色は、自然の景色よりもドラマを感じます。
たぶんそのドラマに、引き寄せられるんでしょうね。

人類みな同級生の店。

これはコロナが世界に蔓延する前のお話です。

毎日のように通う定食屋がありました。
そのお店は、10坪くらいの小さなお店で、
10人も入れば満席です。
料理は美味しいけれど、「ぜひ食べてほしい」と
周りに喧伝するほどのものではない。
食べログの点数も3.0をほんのちょびっと超えたくらい、
といえば、だいたいのレベル感が想像できるかもしれない。
そんなどこにでもありそうなお店ですが、
それでも毎日のように足が向いてしまいます。

いちばんの理由は、
店主のおばちゃんとお客さん。
僕の倍くらい歳が離れているおばちゃんや、
年齢も、性別も、職業も、ばらばらのお客さんたち。
損得の関係はなんにもなく、
肩書きを脱いだただの人が集まっている。
漂うのは放課後のようなワイワイ感。
みんな同じクラスの生徒のような感じで、
お昼が楽しい時間になっていたのです。

その空間にいるときだけは、仕事のことをすっかり忘れ、
その場にいる人たちと他愛のない雑談をする。
昼ごはんを食べに行っているというよりも、
人に会いに行っているという感覚。
それが楽しくて、会社に行きたくないなと思う日でも、
お昼を食べに行きたい(みんなに会いに行きたい)という欲が現れ、
重かった腰も、少しだけ軽い腰になって玄関の扉を開けます。

人類みな同級生。
おいしい食事がとれる場所ももちろん好きだけど、
仲良くなれる人たちがいる場所が僕はいちばん好きです。

出会った瞬間から友だち。

友人と息子のジョージくんと二子玉川の公園で遊んでると、名前の知らない男の子がいそいそとこちらに向かってやってきた。その男の子は自分の名を名乗ることもなく、「ほら、いっぱいいるよ」と手のひらにのっけたダンゴムシをどうだと言わんばかりにわれわれに見せた。小さな手のひらの上でくるまってるダンゴムシを目にしたジョージくんは瞳をキラキラと輝かせ、「どこにいるの!?」とその男の子と一緒になってダンゴムシを探し始めた。

小さな少年たちは、地面の土を凝視し、潅木の茂みに潜り込み、ダンゴムシを発見しては嬉々として僕たちに見せに来る。われわれ大人たちの「すごいじゃん!」という反応に満足した後は、またダンゴムシを探しに行く。

「あっちだ!」
「行こう!」

と、ついさっき出会ったばかりの二人は長年連れ添った親友のような呼吸で公園を元気よく駆け回っている。

日もすっかりと暗くなり、おうちに帰る時刻になると、二人は駆け寄ってハイタッチをして「バイバーイ!またねー!!」と大声で叫びながら別れた。ジョージくんの家は二子玉川ではないから、もうきっと彼と会うことはないだろうけど、そんなことはおくびにも出さず、一期一会のこの瞬間を思い出の宝石箱にしまっていた。

その小さな少年たちの出会いと別れの様子を僕はうしろから羨ましく眺めていた。
いつからだろう。こういう邂逅がむつかしくなったのは。
大人になると見知らぬ誰かに話しかける、という行為ができなくなる。人見知りな性分もあるかもしれないが、名前も知らない人に声をかけることがひどく難易度の高いミッションになっている。大人たちの世界に足を踏み入れると、見えない透明のような壁が現れ、その壁をやすやすと打ち破って相手の懐に飛び込むことが難しい。なかには平気で壁を超えてくる人もいるけれど、ぼくにはできない。

そういう自分にとって、子どもたちように気さくに人間関係を構築できる世界が(たとえその場かぎりの友だちだろうが)とても羨ましく思う。

子どものころに戻りたいとか、子どもは楽しそうでいいなあと思ったりすることも、たまにあるけれど、その根底には、誰彼かまわず仲良くなれる世界に憧れがあるのかもしれない。彼らを見ていて、ふとそう思った。

雨の日のほうが晴れることもある。

外にいるときは雨が嫌いだけど、
家にいるときは雨のほうが好きです。

小窓の向こうでしとしと降りだす雨。
隣の家の瓦屋根に落ちる雨粒を時折見やったり、
その時に生じる雨音を聞きながら、
本を読んだり、作業をするのが好きです。

なぜだかわからないけど、
晴れている日より、気分が乗ります。
とくに眠気がゆっくりやってくる夕方に
ひと雨くると、とてもいい。
雷の音が遠くで鳴ったり、雨が激しくなると、
胸の高鳴りも静かに大きくなっていく。
外にいたら絶対に嫌だけど。

今年の梅雨はひどく長かったこともあり、
もうしばらく雨は遠慮してほしい、と
お腹いっぱいの状態であったけど、
こうも灼熱の日がつづくと、雨も愛おしくなってくる。
天気の子の対極にいる存在として、雨の子がいるならば、
どうか、猛暑をやわらげる雨をください。

ゴミ屋敷の車。

鉄板の上でじゅうじゅう焼かれているお好み焼きの気持ちが今ならわかるくらい、外が暑い。息を吸うと喉が焼けてしまうのではないかと心配になるほど、灼熱の太陽の光が僕の全身をめがけて降り注いでくる。

国道の横断歩道の信号が青になって渡ろうとしたら、赤信号で待っていた先頭の車が痺れを切らしたのか、ほんの少し前に飛び出しきた。「危ないな」と訝しげ、その車を見やるとぎょっとして二度見した。

パンパンに膨らんでいた数多のゴミ袋が後部座席に詰め込まれていたのである。ゴミ屋敷かと見まがうくらい、車内はゴミで満たされ、異形の様相を呈していた。助手席には誰も乗っておらず、白髪混じりのおじいさんが運転席でハンドルを握っていた。鼻先に人参をぶら下げられた馬のように鼻息荒く、前方を凝視していたのがひどく印象的だった。

彼はいったいどんな目的で、数多くのゴミ袋を持ち運んでいたのだろう。ゴミを出すことを忘れて集積所まで届けようとしたのか。いや、日曜日の朝である。そんなわけはあるまい。

うちに帰ると汗がどっと噴き出てきた。ただスーパーに行って帰ってきただけなのに。暑くてたまらない。僕はあのゴミ屋敷の車内を想像した。生ゴミの腐臭が鼻の奥にツンと届く。重くぬめぬめとした臭いが、はっきりとした比重を持って断層のようにどんよりと空中に浮遊しはじめた。その時にはっとした。

あの車、窓を開けていなかったと思う。このご時世に、しかも、ゴミだらけの車中で、なぜ窓を開けていなかったのか。思い返すと、また不思議に思えてきた。彼はなぜ、この猛暑の中、ゴミをいっぱい詰め込んで、窓も開けずに、赤信号でもアクセルを踏んで、先を急ごうとしていたのだろう。

あるいは、あの車は、朦朧とする僕の脳が見せた幻影に過ぎなかったのか。そうであるならば、もう少しマシな幻を見せて欲しかった。

ペウカミ

履くだけで気分が上がってしまう靴ってありますよね。僕にとってそれはカンペールの定番モデルのペウカミで履いているだけでちょっと気分が高揚してしまう。念願だった靴をようやく手に入れた高揚感もあると思うが、履いてみると、想像以上に歩きやすく、「この靴とは長く付き合っていきたいな」と思わせる心地よさがあるのだ。

まずデザインがいい。他のブランドシューズとは一線を画すカンペール独特の丸みがかったカタチに、渋みを感じさせるブラウンカラー。それは美しい彫刻の体のラインを想起させ、何度見ても惚れ惚れとしてしまう(と言ったら大げさでしょうか)。それから履き心地も悪くない。というよりも想像以上に良い。僕の足にピタッとフィットし、足袋のように足の指で地面を掴む感覚があって、思いのほか歩きやすい。さらに軽量のシューズだから、軽々と木々の間を飛び歩く身軽な猿のようにどこまでも歩いていける気がする。見た目も履き心地も申し分なく、最近は取り憑かれたようにこの靴を選んで外に出かけてしまいます。

ペウカミという自分史上最高の靴に出会ったきっかけは、ちょっとした幸運が重なった結果でした。夏に履くサンダルを探して渋谷と恵比寿の街をぶらぶらしていたときに、カンペールのお店が目に入り、「そういえば、カンペールのサンダルってどうなんだろう?」と思って中に入ってみるとちょうどセールをしていたのだ。どれどれ?と駄菓子屋で好みのお菓子を探すような子ども心の眼差しでセールコーナーのサンダルや靴を眺めていると、「おやっ!」と一気に心のボルテージが上がる靴を見つけたのである。お察しの通りペウカミです。

この靴は、ずいぶん前からほしくて何度か購入を迷ったことがあるんだけど、少し高価なこともあり、なかなか手を伸ばすことができなかった。ほっといても売れるペウカミは、セール中であっても安価になることがなく、買おうと思ったら定価で買うしかないと半ば諦めていた代物である。そのペウカミが安くなっているのだ。はっきりとは覚えてないが、確か23,000円くらいの価格が16000円くらいまで値下げされていて、値札を見たとき、僕は目を疑った。ペウカミが安くなっている…! 

店員さんのお話によれば「コロナ禍で売上がガクッと落ちたこともあって、一足でも多く売るため」とのこと。「本当ならこの靴がセールになることはないんですけどね」と付け加えていた。そうだろう。僕もセール品として売りに出されているペウカミをはじめて見た。なんたる幸運。ずっと追いかけていた者にとってこの機会を逃すバカはおるまい。僕は心を弾ませながらも冷静な表情で試着させてもらった。鼻息荒くさせて「こんなやつに売りたくねーな」と店員さんに思われたら嫌だなと思ったからです。

試しに履かせてもらうと、いささかキツく、サイズが合ってないような気がした。歩く分にはそこまで不備はないんだけど、ほんの少しだけ、足の甲の部分が締め付けられる違和感を感じて「もう1サイズ上のものはありますか?」と店員さんに頼んだ。「今、探してきます」とバックヤードに戻った店員さんが再び現れたとき、その手には二つの箱を持っていた。

一つは先ほどの靴のサイズを大きくしたものである。そして店員さんがもう一つの箱を開けたとき、僕の胸はまるで宝石箱を開けたときのように高鳴った。最初に試着していた茶系の靴はどちらかというと明るいブラウンでわりとポップな印象を持つものだったが、新しく持ってきていただいた靴は、暗いブラウンで、大人の渋みを感じさせる色だったのだ。僕はオードリー・ヘップバーンを初めてみたときのように、その色合いに一瞬で恋に落ち、心の中でこれを買おうと決めた。試し履きをさせてもらうと、運命の恋人のように相性がぴったりで僕の足にちょうどよくフィットする。価格、デザイン、色味、履き心地、どの観点から見ても文句のつけようがなく、気がつけば店員さんに「これください」と懇願していた。思えば、このとき色違いの靴を持ってきてくれた店員さんの心遣いに大きな感謝である。

そして話は冒頭に戻る。購入して家に持ち帰って以来、どこか出かけるときは、強い磁力が働くようにペウカミを履いてしまう。他にもadidasのスタンスミスの限定品とか、ダナーのブーツ(は夏に履くには暑いが)とか、いくつかお気に入りの靴はあるんだけど、図らずもペウカミを選んでしまっている。それは履くだけで、なんともないただの道の景色が少しだけカラフルになり、心をぶくぶくと浮き立たせてくれるからです。

僕にちょっとした幸せな気分を運んでくれるカンペールのペウカミ。ほんとうに出会えてよかったなと思っています。あのときのアトレ恵比寿店の店員さん、ありがとうございます。

静かに蚊が刺してきた。

痒い。足のあちこちがムズムズする。無意識のうちに手が両足に伸びてボリボリ掻いている。

そのとき僕は、突き刺さる陽射しに耐えながら、緑が多い公園のベンチで友人の息子が遊具でキャッキャと遊んでいる姿を「平和だなあ」と眺めていた。友人の子どもを筆頭に他の子どもたちも、とてもエネルギッシュに走り回っている。僕なんてベンチで座っているだけでも陽射しにやられて疲労しているのに、彼(彼女)らのスタミナはサッカーの長友も驚くくらい無尽蔵だ。息子とかけっこしている友人のパパから、「交代」とハアハア息を吐きながら声をかけられたが断固たる決意で拒否をした。

そしてこのとき、足に異変を感じる。ひどく痒いのだ。やられた。ぼーっと梅雨明けの日曜日の昼下がりを過ごしているときに蚊に刺されていたようだ。素足むき出しの両足を見ると小さな古墳のようなぷっくりとした蚊に刺された跡が数箇所できている。その膨らんでいる様を発見し、反射的にボリボリと掻いてしまうと、さらに痒さが増倍し、僕の足が非常事態宣言を出しはじめた。

それにしても蚊のしたたかさは見事だ。おそらく何匹もの蚊が一斉に僕のうまそうな(?)白い足を見て攻撃を仕掛けてきたのだろうが、僕はまったく気がつかなかった。気配すら感じなかった。彼らは忍者のように、あるいはアサシンのように静かに、誰にも見つからず、瞬く間に僕の高タンパクな血液を吸っていたようだ。

思えば、蚊にとってみたら、公園という場所は絶好の狩場なのかもしれませんね。ブーンという蚊の存在を知らしめる羽音は子どもたちの声でかき消されるし、ハーフパンツを履いた素足剥き出しのおっさんがたくさんやってくる。そういう人間を見かるたびに「ごちそうがまたきたぞ」とほくそ笑んでいるのかもしれない。

しかし、公園にいる子どもたちは痒いそぶりを一向に見せない。ひっきりなしに駆け回っているから、どんなに腕の立つ蚊でも、刺すことがむずかしい相手なのかもしれません。そういう意味では、ぼけーっと突っ立ってたり、ベンチに座ってる大人のほうが与しやすい相手なのだろう。蚊の世界では「人間の子どもを刺せて一人前」という格言があるとかないとか。