みんなって、何人?

小学生の頃、学校の授業を終えてうちに帰ると玄関先ですぐさまランドセルを床に放り投げ、靴も脱がずにその足で近所の公園に出向いて、同年代の友人たちとサッカーをしていた。日が暮れるぎりぎりの時間までサッカーボールを追いかけていたのを今でもわりと鮮明に覚えている。転んで泥がついても血がでてもそんなのはささいなことで、夢中という言葉がぴったり当てはまるように僕らは遊んでいた。とはいっても、来る日も来る日もサッカーに明け暮れていたわけではなく、やらない日も当然あって、そういうときは友人宅にお邪魔してゲームをすることが多かった。スマートフォンなんて見る影も形もなかった当時、僕らの心をときめかせていたのはスーパーファミコンだ。「スーパーマリオ」や「ロックマン」、「ボンバーマン」といった人気ゲームに友人一同熱中していたし、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーの最新作が発売された日には、それこそサッカーそっちのけでこぞって友人宅に集まって、胸躍る体験を共有していた。

「おかあさん、スーファミ買って」と友人宅から家に帰ると僕は母親に懇願していた。でも、「あんたには必要ないわよ。勉強しなさい」と適当にあしらわれ、僕の望みが叶うことはしばらくなかった。「みんな持ってるよ」という語句を発し、母を説き伏せようと試みたことも何度かあった。自分以外のみんなが持っていると伝えることで、かわいそうな自分を演じたかったのかもしれない。あるいは、仲間外れはかわいそうという同情を母に抱かせたかったのかもしれない。とにかくほしくてたまらなかったから、どうにかして母親を説得するために、安易ではあるけれど「みんな」という言葉を借りて両手を合わせながら頼んでいた。でも、「みんな」なんて言葉は大ウソで僕と同じように持っていない友人もいたし、母もその事実に当然気づいて、「みんな持ってるわけないでしょ」という感じでいつも軽く受け流していた。

「みんなが言ってる」「みんなが持っている」。これらの言葉は大人になったいまでも、時々、耳にするし、自分自身、不意に口走るときがある。長い間、僕はLINEをインストールしていなかったんだけど、そういう流行りものとは無頓着な日々を過ごしていると友だちから「早くとれよ。お前だけだよ、入れてないの。みんなこれでやりとりしているぞ」としつこく嘆願されたことがある。サッカーのワールドカップやオリンピックの時期になると「みんな見てるよ」とお決まりの文句のように人から言われたこともある。でも、そういうときに思うのだ。いったい、みんなっていったい誰のことだろう? どのくらいの数を指すのだろう?

あるとき僕は広辞苑(第六版)を引いてみた。そこには「全部。すべてのもの。すべての人」と記されてあった。「すべての人」とは大きく出たなあ。意味をそのまま受け取ると、みんなとは全国民を指すのだろうか。あるいは全人類のことを示すのかもしれない。もしそうであるなら、とても「みんな」という言葉を使うことはできない。全人類がオリンピックを見ているわけがないし、スーパーファミコンを持っているとは思えない。どうも腹の奥にストンと腑に落ちる意味ではないなあと思って、つづいて大辞林(第三版)を引いてみる。すると「全部」という意味とともに「そこにいる人全部」と併記されてあった。これにちょっと膝を打った。なるほど。こういう限定性を持たせた意味なら、いろんな場面で使うことができますね。たとえば、4人の友だちと同じ部屋で遊んで、じぶん以外の3人がスーパーファミコンをもっていたら、それは「みんなが持ってる」と断言しても間違いではないということなんだ。母にだって、強い眼差しで訴えかけることができる。みんなが持ってるのは嘘じゃない、と。

これまで「みんな」という言葉を使うとき、それはどこか大げさな表現な気もして、地に足がついていない感覚を心ならずも覚えていたりしたけれど、これからは、もうちょっと自信を持って「みんな」という言葉をためらわずに使うことができるかなと思います。