僕は、僕の手を差別していた。

左手で箸を持ち、飯を食っていると、僕と初めて食事を共にした人は、「左利きなんですか?」と訊ねてくる。不思議なことにかなり高い確率でこの質問が飛んでくるので、世の中の人は左利きに対する興味・憧れ・好奇の目があるのかなあ。もっとも、単に初対面特有の会話の沈黙を埋めるべく、「左利き」という身体的特徴は静寂を破る突破口としてちょうどいい糸口になるにすぎないのだろうけど。

例のごとく「左利き」の質問を受け取った僕は前傾姿勢から背筋をピンと伸ばし、キラリと目を輝かせ、「いえ、右利きなんです」と答える。すると相手は不思議がって、じゃあ、なんで左手で箸を持っているの? という顔をするので僕は「3つ理由があるんです」と言葉を付け足すのである。

一つ目は「かっこいい、天才ぽいから」というまるで精神年齢が小学生のような阿呆の回答である。阿呆の回答だけど、これはいささかの偽りもないほんとうの気持ちで、昔から、左利きに対する憧憬の念が強かった。ニュートンも、ダ・ヴィンチも、マラドーナも、ピカソも、モーツァルトも、ベートーヴェンも(今の時代なら、メッシも、レブロン・ジェームズも)、俗に天才・偉人と称される方々の左利きエピソードを耳(あるいは目)にすると、なお一層、左利きへの憧れはふくれあがり、自分も左利きになりたいなあ、と至極単純の阿呆の極みの思考に至るのである。世界のおよそ90パーセントの人間は右利きで、左利きの人間は10パーセントあまりしかいない、というデータも(眉唾ものではあるけど)、その限定感や、希少性に自分もその一人になりたい、と心を左利きに染めさせてしまう。ただ、いくら阿呆の僕だって、この理由のみで、左利きになろうと行動に移したわけではない。

二つ目は「ゆっくりご飯を食べるため」である。基本的に、僕は「超」がつくほどの早食いだ。友人と同じテーブルを囲んで飯を食べていると、みんながまだ半分も食べ終わっていない状況のときに、僕は皿をキレイに平らげていることがままある。よく噛まずにあらゆる固形物をスープのように飲み込む僕の早食いは尋常ではない。意識して直そうと思っても、猫背を直すことが難しいように、遅食いに変心することができない。これに頭をかいていた僕はあるとき、そうだ!不慣れな左手で箸を持てば、飯を食うスピードも遅くなるだろう、と発想したのだ。右手で箸を持ったときの、特急列車の速度で次から次へと食材を口に運ぶことはなくなり、各駅停車のスピードで一つ一つの食材をスロウに食することができる、と思ったのです。これが二つ目。

そして三つ目は「左手がかわいそう」という理由である。右利きの僕は、右手をことあるごとについ頼ってしまう。料理の包丁、バスケットのシュート、野球のキャッチボール、ノートをとるペン、重いものを運ぶ時。あれ? 意外と少ないかもしれないが、まあ、右手の方が活躍の場面が多い。これに左手が嫉妬しているんじゃないかと懸念したわけである。左手も僕の体の一部だ。であるなら、なるべく五体平等に活躍させたいと思うのが心情じゃないですか。これまで右手がわりにがんばって働いてきたわけですから、これからは意識的に左手も使っていきたいと思い至ったわけです。

というわけで、僕は左手で箸を持って食べていますが、似非左利きの人間です。純度でいえば、10パーセントそこそこしかないような、玉石混淆の石ばかり混入して作られた左利き人間です。

いずれは、ペンを持つ手も左にしたいと思って、練習をがんばっていたけれど、これは思っていたよりも容易ならない技術が必要で、箸の練習の何十倍もの時間がいるだろうと感じているので、いまは挫折中。まあ、ひどく自己満足の世界ですが、なるべく自分の体のぜんぶを使って生きたいと思っています。