作った料理のうまさよ。たとえ自炊のへたっぴ料理でも。

最近一週間ほど、朝・昼・夕のご飯をすべて弁当(あるいはおにぎりやパン)という食生活を送っている。概して根っからのお弁当好きなわけではなく、どちらかというと渋々である。では、どうして三食弁当というトリッキーな生活を送っているかというと出張のためです。ホテル暮らしの日々なので自炊をする機会はないし、コロナの影響で会社から外食を禁止されている(ホテルの朝食も禁止)。そのため、有無を言わさず弁当生活をせざるをえないのです。

はじめの頃は、割引されたお寿司を買って食べたり、大好きなカツ丼を食べたり、自分の欲望のままに食を楽しめる弁当生活も悪くないなあと思っていたけれど、それも週の後半になってくると次第に喜楽も薄まり、むしろ栄養バランスを気にしだす始末。

そうした状況の中、昨日、一週間ぶりに自宅に戻り、料理を作った。帰りがてら、行きつけのスーパーで鳥の胸肉やトマト、ほうれん草に卵などを買い上げ、自宅のキッチンでそれぞれかんたんにカットして適当に調味料を混ぜながらフライパンで炒めた。もちろん、料理をする前に白米も炊いておいて、出来立てのご飯を楽しめる準備を整えた。

久しぶりに食べた自炊の料理に感動してしまった。僕は自分ではないけれど誇れるほどの料理の腕はない。むしろ圧倒的にヘタッピ料理人である。それでも、自分の作った簡易な料理に感動してしまった。やはり火に浴びた直後の料理はうまい。ほくほくふっくらのご飯に適度に温かい肉野菜の炒め物。それらが喉をとおるたびに、胸がジーンとしてしまった。

弁当の出来が悪いというわけではない。お弁当というものがこの世にあるおかげで料理が面倒なときや、外食がむつかしいときでもおいしいご飯にありつけるありがたい存在だ。でも、弁当生活を送ることでシンプルに出来立ての料理はうまい。という真理に僕は気づいてしまった。十月は月の2/3以上出張なので、自宅にいるときはできるだけ自炊をしようと思う。

食という、日常の感動

ふだんの生活で感動する瞬間に立ち会うことはそうあることではないと思う。仕事をしているときに胸に熱い思いがこみ上げてくる瞬間はほとんどないし、サッカー選手がゴールを決めたときのように、あるいはサヨナラホームランを打った時のように興奮して思わず手を振りかざすこともない。自身の生活を振り返えると無感動に淡々と日々を過ごすことが多い。

思えば、学生時代の方が感動や心震える瞬間は多かった。所属していたバスケ部の大会で逆転勝利を掴んだり、友人のいる野球部が甲子園出場を決めたり、好きな女の子への告白が成功したり、文化祭のクラスの出し物がうまくいったり、運動会で自分の組が優勝したり、日々の生活の中でも、ドラマの主人公のように感情のボルテージが上がることがしばしば起こっていた。

学生生活の卒業とともに、そうした感動や興奮に出会う頻度は少なくなる。それはきっと学生の頃のように自分の参加するイベント(お祭りごと)がひどく減ることと無関係ではないだろう。社会に出たあとの生活は、スポットライトは当たる瞬間がそうそう巡ってこなくなる。日々を淡々と無感動に生きていくことが多くなる。

そうしたいささか味気ない日々に感動や興奮を味わせてくれるのが食だ。舌鼓を打つほどの美味な料理にありつけた日には、ちょっと幸せになれたり、感動させられる。立派なお店で出された料理に限らず、自分の作った料理でさえ、おお、こりゃうめえじゃん。とその出来栄えに自画自賛し、小さな感動を覚えることもある。

食というものは人間の三大欲求の一つで日々欠かせないものだ。そうした欲望を満たしてくれるものであるとともに、無感動な日々に感動を味わせてくれるものとしても、とてもありがたい存在だと思う。おいしいものに出会えるととても幸せな気持ちになるけれど、それはただおいしいから、という理由だけではないのかもしれません。

給料日は、パチンコで負けてもいい日。

馴染みの定食屋に行った。六十を越えたおばちゃんが一人で切り盛りしている店だ。「たかちゃん」と常連客から親しみを込めて呼ばれているおばちゃんと僕はかれこれ5年以上の付き合いで親のようになんでも言い合える仲である。

カウンター六席、テーブル席が一つだけの、十坪ほどの小さなお店だ。僕は空いていたカウンター席に座るなり、生姜焼き定食を注文した。たかちゃんは「あいよ」と言って狭いキッチンにふくよかな体を縮こませながら料理をはじめた。

その日は、たかちゃんの給料日だった。たかちゃんは雇われ店長みたいなものでオーナーが別にいる。

「やけに嬉しそうだね」と僕は言った。
「給料日だって知ってるでしょ」
「知ってる」
「今日はパチンコで負けてもいい日だから」
「どういうこと?」
「普段は生活かかってるからね。でも今日は月に一度、パチンコを楽しめる日なの」

頬を緩ませながら嬉しそうにたかちゃんは言った。
「あいよ」と出された生姜焼きは、いつもより柔らかく美味しかった。「おいしいよ」と僕がこぼしたら、「大したことないよそんなもん」とはにかみながら返事をする。「早く食べて帰ってよね。パチンコ行くんだから」とたかちゃんが急かしてきたので、僕は生姜焼きをゆっくり噛んで時間をかけて食し、食べ終わった後も椅子に深く腰掛けてくつろいだ。一時間経とうとする頃にようやく席を立つと、「冗談じゃないよ、まったく」とたかちゃんは笑った。

「裕福なウチの犬に生まれたかったなあ」

定食屋で昼ごはんを食べていた。隣に3人組の若い女性陣が座っていて、恋の話で盛り上がっていた。盗み聞きするつもりはなかったけれど、真横のテーブル席にいるので、たとえ耳栓で耳を塞いでも聞こえてきてしまう。3人のうち、甲高い声の女性が、会話の中心となり、話をしていた。

「当時は毎日電話していたよ。話すというより、通話状態にしている感じ。向こうは向こうで何かやっていて、私は私で自分のことをやってる。当時は一人暮らしをはじめたばかりで寂しかったし、毎日電話は苦痛じゃなかった。いまはムリかな〜、帰りの駅から自宅までの時間くらいだったら電話できるかな」

仕事の話もしていたから社会人なりたてくらいの年齢だろうか。30代の女性にはないキャピキャピの雰囲気が感じられる。30代になるということは、そういうキャピキャピが失われていくということだから。

甲高い声の女性は、ひと通り恋愛話を終え、
「お金ほしい〜」とため息と一緒につぶやいていた。

そして他の二人に話を振ることなく、話を続けた。

「私、犬に生まれたかったなあ。ちょっと裕福な家庭の犬に生まれたかったなあ。いい子にしてると『よしよし』って褒められて。生まれ変わったらそういう人生がいいなあ」

友だちは黙って聞いていた。

「ドラマとかで眼鏡をとったら可愛くなるパターンあるじゃん、あんなん、ねーよって思うよね」

友だちは黙って聞いていた。
僕も黙って聞いていた。

世界には二種類の人間がいる。話すことが好きな人と聞くことが好きな人だ。もし話好きの人で世界ができてしまったら、とんでもないことが起きそうだ。二種類の人間が不均等にならないようにバランスよく割り当てられているから、世界は平和でいられるのだろうと僕はこのとき思った。

「私さ、生まれ変わったら桜の木になりたい」

あれは二、三年前の春の季節のことだった。
初めて訪れた土地で感じのいい定食屋に入り、昼食をとっていた。客席の距離は近い。都心のカフェのように瀟洒な音楽もかかっていない。静かで、こじんまりとしたお店だ。

一人で心おだやかに地元の名物料理を食していると、二人組の二十歳前後の女性の話し声が耳に入ってきた。会話の中心はシーズン盛りの花見のことで、そのシチュエーションだけ切り取ればいたってどこにでもある平穏な光景である。「花見行きたいね」「どこ行く?」「マリンも誘う?」と話に花を咲かせていた。花見の予定の話をひと通り終えたあと、窓側に座っていた女性がひと呼吸置いてとつぜん切り出した。

「私さ、生まれ変わったら桜の木になりたい」
「あたしも」ともう一人が同意した。
「一瞬だけでも、みんなに幸せを届けられたらいいよね」
「でも、美しく咲かなかったらどうする?」

その発言のあと、二人は「はあああ」とため息を吐き、両手で頭を抱えていた。

まるで漫画のワンシーンのような自虐的発言と滑稽さにまたたく間に心を奪われ、彼女たちに好感を抱かずにはいられなかった。僕なら、「うん、たくさんの人を幸せにしたいね」と同意するなどして、いい話で終わらせていたと思う。それを、美しく咲かなかった場合を提案して(しかも美しくない桜なんて見たことない)、その恐怖におののいて、がっくり肩を落としている二人をとても可愛らしいなと思った。

そのあと、どこかの観光地に出かけた気もするけれど、その記憶は一切ない。彼女たちの光景の方が僕の頭には残っている。

人類みな同級生の店。

これはコロナが世界に蔓延する前のお話です。

毎日のように通う定食屋がありました。
そのお店は、10坪くらいの小さなお店で、
10人も入れば満席です。
料理は美味しいけれど、「ぜひ食べてほしい」と
周りに喧伝するほどのものではない。
食べログの点数も3.0をほんのちょびっと超えたくらい、
といえば、だいたいのレベル感が想像できるかもしれない。
そんなどこにでもありそうなお店ですが、
それでも毎日のように足が向いてしまいます。

いちばんの理由は、
店主のおばちゃんとお客さん。
僕の倍くらい歳が離れているおばちゃんや、
年齢も、性別も、職業も、ばらばらのお客さんたち。
損得の関係はなんにもなく、
肩書きを脱いだただの人が集まっている。
漂うのは放課後のようなワイワイ感。
みんな同じクラスの生徒のような感じで、
お昼が楽しい時間になっていたのです。

その空間にいるときだけは、仕事のことをすっかり忘れ、
その場にいる人たちと他愛のない雑談をする。
昼ごはんを食べに行っているというよりも、
人に会いに行っているという感覚。
それが楽しくて、会社に行きたくないなと思う日でも、
お昼を食べに行きたい(みんなに会いに行きたい)という欲が現れ、
重かった腰も、少しだけ軽い腰になって玄関の扉を開けます。

人類みな同級生。
おいしい食事がとれる場所ももちろん好きだけど、
仲良くなれる人たちがいる場所が僕はいちばん好きです。

好きな食べ物はなんですか。

 「好きな食べ物は何ですか?」と聞かれることがある。おそらく会話の沈黙を埋めるための質問で大した意味はない。まあ時候のあいさつのようなものである。でも、僕は自分でも馬鹿だなあと思いつつ、好きな食べ物について腕を組んで真剣に考えこんでしまう。この手の質問をされるたびに、一拍おいて、答えを出そうとする。うーん、僕の好きな食べ物はなんだろう? いくつかの食べ物が浮かんでくる。寿司、パスタ、ハンバーグ、カツ丼、焼肉、すき焼き、マカロニサラダ、ぶりの照り焼き、鮭の塩焼き、コロッケパン…。これらの好物をつらつらと答えてもいいのかもしれないけど、おそらく質問の意図としては、「『一番』好きなものは何?」という意味が含まれているはずで、そうなると僕はすっかり考えこんでしまう。少なくとも即答はできない。それでも、何度か聞かれるうちに、なんとなく「カツ丼です」と答えることが多くなった。でも、いつもこの答えを口にするときに「ほんとうに僕はカツ丼がいちばん好きなのかな?」と自問自答していることが多かった。好きは好きだけど、自信を持って「一番」好きとは断言できないもやもやした気持ちを抱いていたのだ。

 好きといいつも、いちばん好きかどうかはわからない。そういう気持ちわかりませんか? わからないですか。すみません。たとえば「パンケーキが大好き」と思っていても、ピンキリのレベルでいうとキリに近い好きの可能性も拭えない、と感じたことはありませんか。「どちらかといえば私は苺パフェの方が好き」と内なる声を発している事実に目を背けたりはしていませんか。していないですか。すみません。僕はカツ丼に対して、そう思うところが多かれ少なかれあって、ピン寄りの好きなのか、キリ寄りの好きなのか、はっきりとわからないところがあった。もっと心から愛する食べ物があるんじゃないかと自分を疑っていた。同じように寿司も、ハンバーグも好きだしね。

 ところが、僕はカツ丼のことがとくべつに好きなんだと明確に認識した瞬間がありました。ある平日の昼間にカツ丼を食べに行ったときのこと。その日は、朝から無性にカツ丼が食べたくなって、昼の休憩と同時に、一目散に馴染みのカツ丼屋に駆けつけた。だからと言ってカツ丼が好きと結論づけたい訳ではありません。寿司だって、ハンバーグだって、パスタだって無性に食べたくなるときはある。 
 
 その瞬間がやってきたのは、カツ丼をほとんど食べ終えたときのことだった。最後の一切れのカツを目にしたとき、僕は奇妙な感情に襲われた。どんぶりの中にポツンと佇んだカツを見て、ひどく切なく感じてしまったんです。ああ、あと一口でカツ丼とお別れしなければならない。まだまだ、食べていたい。もっとカツ丼とのラプソディーを歌っていたい。まるで楽しい一日を過ごした恋人との別れを惜しむようにカツ丼に対して切ない感情を覚えてしまったんです。そのときに、なるほど、こういう惜別な感情が芽生えるということはやっぱり僕はカツ丼が好きなんだ、とはっきりと自覚しました。パスタや寿司やハンバーグなど、いろいろな食べ物でも試してみたけど同じような感情を覚えた料理はなかったと思う。やはり僕にとってカツ丼は特別な存在だったようだ。

 「好きな食べ物は何ですか?」という質問に対して、なんとなく口にしていた「カツ丼」という回答は間違っていなかった。これからは自信を持って答えていきますね。まあ、質問した人も、まさかそこまで真剣に考えた末の回答だとは思わないでしょうが。

f:id:amayadorido:20190927095846j:plain

蕎麦屋のカツ丼がわりと好きです。