愛の告白

えんえんと長く降りつづく梅雨のようにホテル暮らしが続いている。来る日も来る日も、朝起きたら仕事に出かけ、終わるとホテルに戻ってくる。こうした生活の中で唯一と言ってもいい楽しみは食事になるはずなんだけど、会社から外食禁止令が発令されているために毎食お弁当で済ませなければならなかった。

出張当初は、こうした非日常生活も、たまには悪くないと思えたが、コロナ禍のいま、空いた時間にどこか観光に出かけることができるわけではなく、地元の名産を味わえるわけでもなく、終わりのないキャッチボールのように、ただただホテルと仕事場の往復なので、二、三日も経ってくると早く自宅に帰りたいなあと思うようになっていた。

しかし、この空疎で渇いた出張生活の中で「これは好きだな」と楽しみにしていることの一つがコインランドリーです。数日分の溜まった衣服をホテルの近くにあるコインランドリーに持ち運び、大型のドラム式の洗濯乾燥機にほいっと放り込み、50分ほど時間を潰すと、まるでできたてほかほかの肉まんを提供されたように、ふっくらしたあたたかな衣服が出来上がっている。

冷え切った雑巾のような衣服が、洗濯乾燥機の重厚なドアを開けると、窯で焼いたピザのようにほくほくに生まれ変わって僕の前に現れる。そっと手を触れたときのさわり心地は抜群で顔にぎゅっと埋めても気持ちがいい。なんとも言えない至福が胸に押し寄せ、無味乾燥化しているホテル生活にささやかな潤いをもたらしてくれるこの瞬間が僕はとても好きになっています。

音楽が必要だ、この世界には。【20200920 スペアザ@日比谷野外音楽堂】

SPECIAL OTHERSのライブに行ってきた。
本当なら今年の春先と初夏にライブがあり、そのチケットも確保していたんだけど、ご存じのようにコロナの影響で全てのライブが延期となっていた。そんな折、ついに、待ちに待ったライブの開催である。

会場は日比谷の野音で、つまり野外だ。座席も指定席なので、ソーシャルディスタンスを保った席位置を用意することができる。こうした事態におけるライブ会場として理想的な場所だと思った。

開演の時間が迫るにつれ、胸が高まってくる。ひさびさにスペアザの生演奏を浴びることができるという喜びもあるし、今日のセットリストはベスト盤に近いものになるんじゃないか、と予感めいたものがあった。

本日のライブはツアーではない。そしてコロナが完全に収まっていない中での決行である。勇気を持って参加する観客のために、来てよかったと思ってもらえるセットリストになると思ったのだ。

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開演を告げるSEとともにメンバーが登場し、演奏が始まった。しかし、誰一人、観客が立たない。みんな座って聴いている。どうしてだろう?と思ったが、もしかして「立席は禁止」とHPに注意事項が書かれていたのかもしれない。スタンディングで聴けないことに少々残念になりながら、僕も着席スタイルで観賞していた。スペアザの音楽は体が自然に踊り出すものが多い。曲のリズムに乗りながら、ダンスをするのがとても心地よいんだけどな。まあ、ライブを味わえるだけでも有り難いと思うしかない。

そう思っていたら、三曲目に入る前に、スペアザの芹澤さんから「適切な距離を保てば立って聴くのも大丈夫ですよ」とみんなに呼びかけてくれた。僕らは待ってましたと言わんばかりに、すくっと立ち上がり、スペアザの音楽を浴びるのに一番いいスタイルで聴くことができるようになった。

9月の下旬に差し掛かるこの日は、残暑厳しい暑さもどこかに消え、適度な風が吹き、とても心地いい会場になっていた。

5月にリリースされたアルバムのタイトルチューンである「WAVE」が流れたあたりから、僕のテンションは最高潮に上がっていく。ほんとに音楽はいいものだ。自粛期間のあいだ、テレワークになっているあいだ、音楽は日々の生活のお供だったけど、やっぱり外で、生演奏で、オーディエンスとともに聴くことはとても素晴らしいものだと胸がジーンとなった。

スペアザの一・二を争う人気曲「AIMS」と「Laurentech」が立て続けに流れる。僕はかれこれ9年くらい彼らのライブに通っているけど、この2曲が一度のライブで同時に演奏されるのは珍しいことで、おそらくこの日この場にいたほとんどの観客は興奮したことだと思う。この状況でライブができたこと、この状況で大勢の観客が駆けつけてくれたこと。そうしたことに対する、スペアザからの感謝の気持ちのようなものを僕は受け取った。

そしてアンコールは絶対にこれしかないだろうと思っていた「Ben」。この曲のほかにアンコールにふさわしい曲を僕は知らない。

夕陽が沈み、夜の帳が下りる中、エンディングにふさわしい曲がはじまった。この曲は前半と後半で構成ががらりと変わる。前半は、ジャズセッションのように四人のメンバーが各々楽器を高度な次元でセッションし合う。 ギター、キーボード、ベース、ドラム、それぞれの楽器が、決められたコードから外れながらも、絶妙に絡み合っていく。

そして後半。ドラムの宮原さんの素晴らしいソロ(ドラムだけで聴かせるってすごいと思いませんか?)から、ベースの又吉さんがここしかない間で入り込み、そして、キーボードの芹澤さん、ギターの柳下さんが再び揃うと、物語のクライマックスかのように曲のテンションは一気に上がり、観客のボルテージも最高潮に達する。ほぼ全員が立ち上がり、手を振りかざし、飛び跳ね、気持ちよさそうに踊っている。僕も多幸感の最先端にいるかのように、胸を高鳴らせ、彼らの最高の音楽を全身で浴び、体から喜びを発していた。

今日のライブはセットリストといい、彼らのプレイといい、会場の環境といい、これまでに行ったライブの中でも、ベスト3に入るくらいに感激したものだった。

行ってよかった。ほんとに。コロナ禍の世界にも、音楽は必要だと全身で感じることができた。こういう多幸感あふれる時間は他のものではなかなか味わえない。むしろ、音楽以外にちょっと思い浮かばない。

音楽はとうの昔に恋に落ちていたけれど、今日また心を撃ち抜かれてしまった。

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お祭りに行くと、小学生の僕がいた。

去年の秋、生まれ育った街の祭りに行った。最後に行ったのは僕が中学生か高校生くらいの頃で、かれこれもう二十年も昔のことになる。その祭りは二日間の開催で数十万人の人が訪れる、にぎやかで規模の大きなお祭りだ。実家に住んでいた頃、僕は街をあげてのこのお祭りに毎年のように駆けつけていた。

祭りは、街の中心部から同心円状に広範囲にわたって催され、どこを歩いても、激しい人だかりになる。原宿の竹下通りの人混みが延々とつづくような光景といえばイメージが浮かぶかもしれない。その人混みをかき分けるように何台もの山車が巡行し、笛、和太鼓、鉦の祭囃子がピーヒャララとにぎやかに鳴っている。沿道には「チョコバナナ」「お好み焼き」「たこ焼き」「ベビーカステラ」「りんご飴」と見慣れた屋台が隙間を空けずに立ち並んでいる。僕はその祭りの風景を目にして郷愁の念を感じずにはいられなかった。

街の様相は栄枯盛衰のごとく変わっていく。年に一度、正月の時に地元に帰ると僕の生まれ育った街が、毎年、少しずつ、人間の細胞が日々生まれ変わるように変化していることに気がつく。新しい店ができたり、その反対に、長くつづいていた店がなくなったりしていた。何度も遊びに訪れていた駄菓子屋のシャッターが二度と開かないように閉まっていると、なんだか僕の思い出も一つ消えてしまったようで悲しくなる。

でも、祭りの光景は、あの日の光景とほとんど変わらない。ときには見知らぬ屋台もぽつぽつと見かけることもあるけれど、ほとんどの屋台は子どもの頃からあったものだ。祭りには、あまり栄枯盛衰というものがないのだと思った。

僕はひさびさの祭りで子どもの頃にあった出来事を思い出していた。祭りというものは、思い出がたくさん詰まっている記憶箱のようなものかもしれない。時を超えてその場に立つと、遠い昔の、記憶の蓋が開く。

駅員「お触りください」

夏の暑い日。僕は山手線のホームで電車を待っていた。次発の電車を待つ列の後ろに並んでいる。前方には、休日のラフな格好をしたおっさんや、肌をさらけ出した若い女性がいる。そんなターミナル駅特有の喧騒の中、スマホをいじりながら電車を待っていると駅員のアナウンスが聞こえてきた。

「ーーー、お触りください」

最後のフレーズを聞いて、僕は耳を疑った。駅構内で「お触りください」とはなんと大胆なアナウンスであろうか。ほうかほうか、触ってええんか。

いや、そんなわけはあるまい。「白線の内側までお下がりください」と言ったのだろう。危うく法に触れるところだった。アブナイ、アブナイ。酷暑の夏によって、頭の機能の一部がショートしてしまっているのかもしれない。アブナイ、アブナイ。もしかしたら、世の痴漢男性も、激烈な暑さによる頭のショートによって「お触りください」と間違って聞き取ってしまったのではないだろうか。あるいは、そうなのかもしれないと思うと、いささか同情…するわけがない。

「私さ、生まれ変わったら桜の木になりたい」

あれは二、三年前の春の季節のことだった。
初めて訪れた土地で感じのいい定食屋に入り、昼食をとっていた。客席の距離は近い。都心のカフェのように瀟洒な音楽もかかっていない。静かで、こじんまりとしたお店だ。

一人で心おだやかに地元の名物料理を食していると、二人組の二十歳前後の女性の話し声が耳に入ってきた。会話の中心はシーズン盛りの花見のことで、そのシチュエーションだけ切り取ればいたってどこにでもある平穏な光景である。「花見行きたいね」「どこ行く?」「マリンも誘う?」と話に花を咲かせていた。花見の予定の話をひと通り終えたあと、窓側に座っていた女性がひと呼吸置いてとつぜん切り出した。

「私さ、生まれ変わったら桜の木になりたい」
「あたしも」ともう一人が同意した。
「一瞬だけでも、みんなに幸せを届けられたらいいよね」
「でも、美しく咲かなかったらどうする?」

その発言のあと、二人は「はあああ」とため息を吐き、両手で頭を抱えていた。

まるで漫画のワンシーンのような自虐的発言と滑稽さにまたたく間に心を奪われ、彼女たちに好感を抱かずにはいられなかった。僕なら、「うん、たくさんの人を幸せにしたいね」と同意するなどして、いい話で終わらせていたと思う。それを、美しく咲かなかった場合を提案して(しかも美しくない桜なんて見たことない)、その恐怖におののいて、がっくり肩を落としている二人をとても可愛らしいなと思った。

そのあと、どこかの観光地に出かけた気もするけれど、その記憶は一切ない。彼女たちの光景の方が僕の頭には残っている。

人という景色にも、惹かれてしまう。

深夜、都内を走るタクシーの中で、
窓の外の夜景をぼんやり眺めていると、
なにやら喧嘩をしている二人組を発見。
寝ぼけまなこながら、
火花が飛びかっている二人の光景を追いかけはじめる。
タクシーで横切るその数秒間の出来事は、
意識的というより、
ほぼ無意識的に行っていたような気がします。

惹かれる景色というものは、
夜景をはじめ、夕日に星空、青い海など
いろんな景色がありますが、
人の景色もそうなんだと思います。

絶景と同じくらい、もしくはそれ以上に目を奪われる。
人の景色は、自然の景色よりもドラマを感じます。
たぶんそのドラマに、引き寄せられるんでしょうね。

知らない道。

考えごとをしながら歩いていたら
知らない道に迷い込んでしまった。
近所のはずなのに見たことのない場所だ。
はて、いったいどこで道を間違えたのだろう。

さて、グーグルマップを立ち上げるかどうか。
グーグルマップさんに尋ねれば、
こうして道に迷っても現在地はわかるし、
うちに帰ることは、いともたやすくできるだろう。

でも、グーグルマップさんに尋ねなかったら。
蛸の足のように分岐する道を、
好奇心の赴くままに歩き進めることができる。
それはなかなかおもしろい散歩ではあるまいか。
せっかく、意図せず、未知の世界に迷い込んだのだから、
この状況を楽しむのもいいかもしれない。

そうして、ぼくはポケットからスマホを取り出さず、
歩いたことのない道を歩みはじめた。

しかし、好奇心を刺激される一方で
奥へ奥へと進むたびに、
もう家に帰れないんじゃないかと
漠然とした不安が襲ってくる。

図らずも世界の境界を越えてしまって、
異なる世界に迷い込んでしまったのではないか。
そんな空想めいたことも現実のように感じてしまう。

しばらく歩いていると見慣れた景色に再会した。
よかった。ぼくは戻ってこれたようだ。
未知の世界というものは、存外、近所にあるらしい。