シーソーゲーム 〜勇敢な”変”の歌〜

あれは確か僕が小学6年生の修学旅行のときのことだった。栃木の日光にバスで向かう途中、車内ではクラス全員でヒット曲を歌うカラオケ大会のようなイベントが催されていた。歌の選曲はサザンオールスターズ、Mr.Children、スピッツ、SMAP、globe、安室奈美恵と当時(現在でも)のヒットメーカーがずらりと並んだラインナップである。その有名アーティストの数々の名曲を叫ぶように僕たちは楽しく歌っていた。先生としても子どもたちに楽しんでもらう目的のほかにバスの時間を飽きさせず、好き勝手に騒がせない意図もあったと思う。その狙いは成功していた。夢中になって僕らは歌っている。ただ、いくら大ヒット曲とはいえ、んーんんー、と鼻唄にならず、どうして淀みなく歌えたのかというとみんなの手元に歌詞カードが配られていたからだ。それはクラスの子が手書きで作ったものだった(もちろん原本をコピーして配られた)。

事件はMr.Childrenの「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~」が流れた時に起こる。ファンの方はご存知だと思いますが、タイトルに「恋」という文字が含まれていることからもわかる通り、この曲は歌詞に「恋」という言葉がたびたび出現する。そして僕たちに配られた歌詞は、「恋」という部分が押し並べて「変」になっていた。「勇敢な恋の歌」という部分は「勇敢な”変”の歌」という具合に。「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」は「”変”なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」と書き換えられていた。もちろん意図的にではなく。

当時小学生だった僕たちは、この歌詞に湧いた。男の子も女の子も関係なく大声を出して笑った。「恋(変)」というフレーズが出てくるたびに車内が揺れるくらいの笑いが生まれた。大人になると大して面白くないことも小学生はそういう些細な間違いが大好物だ。僕も腹を抱えて笑っていた。それから「歌詞を書いたの誰だー?」と犯人探しのようなことが起き始めた。僕は窓際の席に座っていたTさんがうつむいて恥ずかしそうに顔を赤らめているのを見た。みんなが騒いでいる中、Tさんだけは早く曲が終わりますようにと祈るような顔で下を向いていた。彼女が書いたのだろう、とすぐにわかった。

彼女はみんなを笑わせたくてわざと間違えたわけではない。本当はみんなに歌ってほしくて、楽しんでほしくて、授業外の時間を使って、一所懸命に歌詞を書いたのだと思う。大人になった今ならわかることも、子どもの頃に、書いた人の気持ちを汲み取ることなんてできるわけがなく、車内中に響く笑いは切れ味の鋭いナイフとなって彼女の心を切り裂いた。みんなが笑うたびに彼女は傷ついていく。僕も笑っていたけれど、Tさんの姿を見ていたら、心から笑うことができなくなっていた。

小学校の頃の記憶なんて、流れる雲のようにどこかに消え去ってしまったが、これは何十年たっても忘れられない出来事です。僕はこの時、笑うことで人を傷つけることがあると学んだような気がします。

散歩の方位磁針は心である。

目的のない散歩というものは心が方位磁針になる。目的地があるならば、ゴールに向かって弾丸のように行進するのだが、行くあてのない散策は感情のパラメーターが上昇した方位が進路だ。心のアンテナを受信した道が進行方向になるのである。

ぼくはあたかもコロンブスになった気分で自分にとっての新大陸を発見すべく、心の機微に従いながら、左足と右足を交互に繰り出していた。自分だけの地図を手作業(というよりも足作業)で作り上げていくような高揚感もあった。テクノロジーが発展し、地球上の地図が詳細に描き出されたとしても、自分にとっての世界はまだまだ空白だらけなのである。

知らない駅に降り、知らない土地を歩き、知らない店と出会う。なんの予定もなく、ぶらぶらとする休日は、それはそれでなかなか楽しい冒険の日なのである。

銭湯は冷える日の幸せ。

厚手のダウンを着込み、冷えきった夜の世界を体を縮こませながら、いそいそと銭湯に向かった。土日の夜に行くと、決まって混雑をみせる近所の銭湯も、冷気に包まれた今日のような日なら比較的空いてるだろうと思ったのだ。それに、この冷たい空気を味わったあとで、銭湯に入るのは気持ちいいだろうなあと思ったからです。

外は朝に止んだはずの小さな雪が再び降り始めている。雪は容赦なく僕の顔に当たり、体温は奪われ、体がどんどん冷えていく。まるで冷凍庫の中に放り込まれたように。幸い、銭湯まで徒歩5分とかからないので、ぐっと堪える。こんなに寒い夜でも、外を歩いている人はわりにいるし、ランニングする人さえも見かけた。なんともまあ、強靭な意志と肉体をお持ちの方である。

雪と冷気と暗闇に包まれた夜の中、淡い橙色の照明に照らされた銭湯の暖簾を見つけると、そこはまるで桃源郷のような場所に思えて仕方がなかった。僕はたぶんこれまで百回は軽く超えるくらい銭湯に行ったと思うけど、銭湯の玄関に温もりというものをいちばん感じた瞬間だったと思う。

番台で代金を支払い、脱衣所に向かう。さっと服を脱ぎ、洗い場で頭と体を入念に洗っていざ湯船へ。ふぅ〜。気持ちがいい。室内は思ったとおりがらがらだ。こちらの銭湯は数年前にリニューアルしてデザイン性を高めたこともあり、とても人気がある。だから、銭湯のゴールデンタイムである18時〜20時くらい(土曜日の場合)に浸かりに行くと、湯船にスペースがないときがある。押し競饅頭のように人で埋まっているのだ。空きができて湯船に浸かったとしても、次から次に浴室に人が入ってくるので、すぐに出ないといけないかな、と心配になってしまい、心はぜんぜん休まらない。心と体を休めにいってるはずなのに。でも、今日は両手で数えるくらいの人数しかいなくて、ゆっくりと堪能することができた。

浴室内は湯気が立ちこもり、オレンジ色の照明がゆらゆらと輝いて、まどろみの空間をつくる。まるである種の桃源郷の幻影を思わせる光景だ。僕は湯船と水風呂と休憩を繰り返し、心ゆくまで銭湯を満喫する。おじいさんも幸せそうな顔をして湯船に浸かっている。我が家の風呂のように悠々自適に過ごしていたら、あっという間に一時間が過ぎていた。今年になっていちばん贅沢な時間だったかもしれない。

番台のお姉さんにロッカーの鍵を返して外に出る。凍えるほど寒かった外の空気も、ぽかぽかの体と相対すると、それはとても心地いい夜になっていた。寒い日だからこそ味わえた幸福がここにはありました。

好きになるのに欠点の多さは関係ない。

ほんとうなのかと思われるかもしれないけれど、僕は文庫本よりも、ハードカバーの本が好きだ。かつては、本といえば文庫本だった。価格は良心的だし、持ち運びにも場所を取らないし(コートの裏ポケットにだって入れられる)、なにより単行本に比べて軽い。手に持って読んでいてもそうかんたんには腕は疲れない。そうして長らく文庫本生活を送っていたけれど、あるとき、試しにKindle Paperwhiteを買ってみたら、どっぷりそっちの沼にハマッてしまった。Kindle沼もなかなかどうして底の深い沼で、魅惑的な点がいくつもあって、つぎからつぎへとKindle版の本を買いあさった。セール価格本の一覧を眺めては、良さげな本を見つけると綺麗なお花を摘むようにポチポチと購入ボタンを押した。いまでは僕のKindleには300冊以上の本が収まってる。それからメモ機能も便利で、気になった言葉をマーカーのように線を引くと、パソコンに自動保存でストックされるようになる。この機能もとても便利で愛用していた。

それがある日を境に、というわけでもなく、気がついたら、ハードカバーの分厚い本がたまらなく愛おしくなってしまっていた。本は重たいし、値段はほかの書籍媒体より割高だし、場所はとるし、携帯に不便な代物だ。そんな欠点の多いハードカバーの本をいま常にバッグに忍ばせてる。うちに帰っても、ハードカバーの本を開くことが多い。あのクリーム色の紙と広いスペースに印字された文字の群を見るのがなぜかひどく愛おしくなっている。誰かを好きになるのに理由がないのと同じように、理由なく、本能的にハードカバーの本を好きになっている。本の中身に関してはそこまでこだわりはない。ある程度、美しい文体で書かれているものならば、とくに作者も気にならない(その点でビジネス本よりも、小説を好んで読む)。

もしかしたら一周まわってまた文庫本に戻るかもしれないけれど、いまのところ、そういった気分に変わる片鱗はない。いま、高校生の恋愛のようにハードカバーの本に恋をしている。

この世界で僕だけが取り残されているように思えた。

雲の隙間から一羽の鳥が飛んでいくのが見えた。大空を優雅に舞っているではなく、一点の目的地に向かって力の限り全速力で飛んでいるように見えた。僕の人生であのくらい真剣にどこかに向かって駆け抜けたことは一度だってあっただろうか。脇目も振らずに走り抜けたくなる目的地は、物理的にも、精神的にも、これまでの人生でただの一度もなかったと思う。薄れゆく記憶を草木をかき分けるように青春時代や少年時代まで遡ってみても、一目散に駆け抜けた記憶は見つからない。

あの鳥が懸命に向かう先にあるものは何なのだろうか。もう一度、僕は彼の方向に目を向けた。しかし、すでに跡形もなく、あの鳥は消えていた。僕の体を背中から強い風が通り抜けた。彼は弾丸のように目的地に向かってまっすぐ突き進んでいた。この世界で僕だけが取り残されているように思えた。

アイスミルクではなかったですか?

冬の寒い朝、カフェに入って「ホットミルク」を注文した。ほとんど待たないうちに店員さんは僕が頼んだドリンクを提供してくれた。しかし、その中身は「ブレンドコーヒー」だった。

おかしいなことが起きてると僕は思った。まちがいなくホットミルクと言ったはずだし、代金もホットミルク代を支払ったはずだ。このままコーヒーを受け取ろうともしたが、とはいえホットミルクを飲みたかったので、「ホットミルクを頼んだんですが…」と小声で指摘したら、「アイスミルクではなかったですか? 失礼しました」とその女性店員さんは申し訳なさそうに謝った。

いや、ちょっと待ってくれ。アイスミルクでもない。よし、わかった。百歩譲って(別に譲らなくてもいいですが)仮にアイスミルクだとしましょう。ただ、アイスミルクだとしても、お姉さんが提供してくれたのはブレンドコーヒーですぞ。

そのまちがいの積み重ねに僕は小さく笑ってしまった。おそらくお姉さんも気づいたのだろう。恥ずかしさと申し訳なさを含んだ笑みを僕に投げた。

冬の冷えた日曜日の朝が少しだけ微笑ましくなった。寒いから家にこもってぬくぬくしてようかと思ったけれど、外に出てみると、こういう微笑みの事件が待っていることもある。

幻の春

まるで空気の衣替えしたように、東京は暖かくなり、春の陽気を感じずにはいられなかった、今日という日。ただそれだけなのに、ただ暖かくなっただけなのに、ひどく心が昂ぶった。

春になると花たちが一斉に咲き始めるように僕の体も高揚感に満たされて、何かが咲きそうな気分になった。そのまま体から花が咲いて、道端で日向ぼっこできたらいいのにと思った。そうすれば会社に「すみません、僕、花が咲きました」と言って休むことができる。そして月曜日をのんびりと過ごすことができる。そういう一日だってたまには悪くないと思う。

夜になると、冬が引き返し、また寒くなった。日中の春の陽気は幻だったかのように。これからまた寒い日がつづくのだろうか。僕のスマートフォンに「明日は8度低い予報です」という通知が届いた。窓の外を時折突風のような強い風が吹く。コートを脱ぎ、シャツ一枚で外を歩ける日まで、あとどれくらいの夜を過ごせばいいのだろう。