「よーいどんしよう」

「ジョージ」という名前の子供(男・3歳)がいる。大学時代の友人の子供だ。ジョージ君はよくかけっこをする。午後の昼下がりにテラスのあるカフェでジョージパパと僕がくつろいでいると、ジョージ君は僕ら二人を呼んで、隣接の広場を指で指しながら「よーいどん(かけっこ)しよう」と誘ってくる。

鬼ごっこのようなゲームがはじまり、僕とジョージパパは逃げるジョージ君を捕まえようとする。僕らはほとんど歩くようなペースで移動しているのだけど、ジョージ君はずっと走りっぱなし。とにかく走る。息が切れてもとにかく走る。ちょっと休憩して、またすぐに走り出す。

「ジョージはいっぱい走るな」と僕が言う。
「はやいでしょ」と彼は鼻高々に言う。

それにしても、どうして子供はあんなに走るのだろうか。僕も小さい頃はよく走っていた。走って足を滑らして、比較的広い道路側溝に落ちてそのまま排水とともに体を流され溺れた記憶がある。どうやって助かったのか覚えてないが、きっと親は肝を冷やしたに違いない。まあ、見境なく走り回る。走るのが仕事のように。そういえば、僕は猫を飼っていた時期があるが、猫の一日は寝るか食うか走り回るかという感じだった。なんだか人間の子供と似ている。とにかく走り回る。走ることでありあまったエネルギーを放出しているのだろうか。それから走っているときの子供は、目が輝いている気がする。じっと座っておとなしくしているときよりも、目がきらきらしている。好奇心の赴くままにブレーキを踏むことなく動き回る。

僕がテラスに戻って休んでいると、ジョージ君が足を引っ掛けて転んだ。おでこを地面にぶつけてしまったようで、大泣きし、ジョージパパに慰められている。するとパパが僕に向かって「痛いの痛いの飛んで行け〜」と言うので、僕は「イタイ!」と痛がる振りをした。すると、ジョージ君は「ぶふふ!」と呵呵と笑った。それに気をよくしたジョージ君はこんどは自ら僕に向かって「飛んでけ〜!」光線を連発する。僕は散弾銃で打たれたように、「イタタタタ」と痛がった。ジョージ君に笑顔が戻る。そしふたたび元気になって「よーいどんしよう!」とまた僕たち大人二人を誘う。彼は転げた場所まで走っていって「めっ!」と地面を叩きつけた。そしてまたかけっこを始めた。

日も暮れてすっかり暗くなり、僕らが帰ろうと言っても、ジョージ君は「まだ」といって走り始める。無尽蔵にエネルギーがあるみたいだ。飽きるということがないらしい。それが大人心にびっくりする。あれだけ走ったら飽きそうだけど、そういう素振りは一切ない。ひょっとしたらメロスよりも走っているのではないだろうか。

子供は大人よりもランナーだ。ひとつのことを飽きずにつづける力がとてもある。そのエネルギーは元・子供だった僕にもあるはずだ。人はきっと走り続けるエネルギーをもっているのだ。それを大人になって忘れてしまった僕にジョージ君は教えてくれているのかもしれない。

写真集という瞬間リフレッシュ。

突然の告白をお許しください。僕の仕事机には様々な参考書・ビジネス書とともに桐谷美玲さんの写真集が鎮座されている。彼女の写真集は僕にとって仕事をする上で欠かせない大切な相棒になっている。といっても、べつにいやらしいツールとして使っているわけでは決してない。

仕事中、頭から煙が出るくらい煮詰まって、しっちゃかめっちゃかな状態に陥っているとき、僕は、おもむろに桐谷さんの写真集を取り出す。彼女の屈託のない笑顔や美しい横顔を眺めていると、オーバーヒートしていた頭がハートマークで埋まり、熱した脳が冷蔵庫に放り込まれたように冷めていくのだ。考え疲れもどこかに消え去り、頭がいくらかクリアになる(個人差があります)。

そんな桐谷写真集とともに日々を過ごしている僕ですが、もともと彼女のファンというわけではなかった。たまたま会社に置いてあった彼女の写真集を年末の大掃除で処分する運びとなり、台車に積まれていた桐谷写真集を発見した僕が、そういうことならと引き受けた。ダンボール箱に入れられた捨て猫を拾うかのように。はじめのころは空いている時間に眺める程度だったのだが、彼女との接触回数(写真との対面)が増えるたび、いつしか気になる存在となり、彼女が結婚を発表したときには、片思いの恋が破れたように落ち込んだ。

一方的な恋は一方的に破れてしまったけれど、それでも、あいかわらず、彼女の写真集は僕にとって大切な相棒だ。煙草を吸わない僕は、それまでリフレッシュするうまい方法を見つけることができなかった。頭から煙が出そうになったら、うまく火元を消すことはできず、そのまま過熱状態に陥ることが多かった。リフレッシュをするために、仮眠をとったり、音楽を聴いたり、お風呂につかったり、といろいろ手段はあるけれど、どれも時間を要してしまう。外に出たら、ある程度気分転換になるかもしれないが、仕事のことから頭が完全に離れることは難しかった。それらと比べて、わずかな時間で頭の空気を入れ換えられる写真集はなかなかいいリフレッシュツールだと思っている。

写真集をこういう使い方で利用できるとは思ってもいなかったので、あの年末の大掃除での出会いは運命的だったのかもしれない。おかげで僕の生産性・効率性・クオリティがあがったかどうかはわからないが、もし高まっているのなら、桐谷さんのおかげです。ありがとうございます。

失笑の多い人生を過ごしている。

僕にはいいかげん直した方がいいよなあと思いつつ、改善されていない悪習がある。駄洒落である。駄洒落を言うのは誰じゃ? と口走ったことはないが、自分のプロフィール欄に「癖」の項目があれば、「駄洒落」と記して違和感のないくらい習慣化している。もっとも、「駄洒落」というワードならまだ恥を感じることは少ないが、ほぼ同義語の「おやじギャグ」として周囲のみなみなから指摘されてしまうと、とたんに赤面度はあがる。

先日も仕事の打ち合わせ中に、入社2年目の若手が、

「蛇の飼育ブログを書いてます」

と言った。それに対して僕は間髪入れずに、

「ヘビーだぜ、と書いてるんだね」

と口にした。その場は失笑の嵐である。特に20代前半の若者たちからは「あはは」と笑いつつも、目は笑っていない。むしろ、おやじギャグだ、という蔑みの目でこちらを見ている。僕はいたたまれなくなり、ああ、またやってしまったと肩を落とす。そして後悔が泥となって心を廻流する。

が、しかし、思い過ごしかもしれないけれど、その場の空気はいささか温まったと思う。張りつめていた空気の中に、風船がぷかぷかと浮かんできたような朗らかな空間に変わった。その証拠に「ヘビー以後」は、堰を切ったように若者たちからの意見が飛び交い始めた。「こんな下らないことを言っても許される」と思ったのかも知れない。

僕はおっさんになったからといっておやじギャグを言い始めたのではなく、それこそハタチそこそこから、この手の駄洒落は言っていた。周りの人を笑わせたい、楽しませたい、という思いが僕の根底に根強くあったからだ。でも、そのために、駄洒落を用いるという愚考はなかなかどうしてうまくいかず、大笑いよりも失笑の多い人生を送っている。

だが、先のように周りの空気をマッチの火くらいは温めている、と思うと、こういう癖も悪くないぞ、と考え直してしまい、結局、僕の悪習は改善されない。そのうち、いつか本気で煙たがれれる前に辞めなければいけないと思っている。いずれ、ニコチン中毒やアルコール中毒のようにダジャレ中毒になってしまう前に。

姿勢は伝染する。

何十キロもの距離を走り、見上げるほど長い階段を何往復もし、ジムに戻ってひたすらミットを打ち、それからサンドバックに全力で拳を放ち、シャドーをし、筋肉トレーニングを行い、また走りに行く。大事な一戦に向けて、血反吐が出るくらい体を追い込むプロボクサーの姿を見ると、心を打たれて、自分もがんばろう、という気持ちが湧いてくる。

ラッセル・ウェストブルックというNBAプレイヤーがいる。彼は、その日の試合がまるで人生最後の試合のように、燃え尽きて灰になってしまうかのように一試合、一試合、望んでいる。命を削っていると思えてならない気迫のこもったプレーを観客に見せてくれる。そういう魂のこもった姿を見ていると、なんだか感傷的になるし、自分の心に火がボッとつくことがある。

ももいろクローバーZも鼓舞されるときがある。僕はライブに足を運んだことはないけれど、YouTubeで彼女たちのライブ映像を見ているだけでも、全身全霊で、魂を込めて歌って踊って大勢の観客を楽しませようとする姿を見ていると、画面越しにエネルギーをもらって、自分もやるぞ、という気持ちが心の底からぶくぶくと湧き出てくる。

同じように、友人や同僚のがんばっている姿を見ると、その姿勢に感化され、僕の気力も湧いてくる。「がんばれ」と言葉で言われるよりも、がんばれる気がする。だから、というわけでもないけれど、近くにいる誰かを応援したいとき、「がんばれよ」と声をかけるのもいい。でも、自分のがんばる姿を見せることが何よりのエールになるかもしれない。きっと、言葉より伝えることができるはず。姿勢というのは伝染する力があると思うのだ。

薬局に売っていない薬

■名前:エイガ

■価格:100~2200円

■効能:・心の棘を取り除きます
     ・沈んだ気持ちを晴らせてくれます
     ・カタルシスを味わせてくれます
     ・気分を高揚させてくれます
     ・ご飯がおいしくなります

■用法:家で観るより、映画館で観たほうが効果は覿面(てきめん)。
          大画面、音響設備、周囲の笑い声・泣き声、
            これらの環境が薬の力を倍増させます。

■用量:個人によるが、一日1錠 or 2錠が好ましい。

■成分:・監督の情熱
     ・脚本家の苦しみ
     ・演者の冒険心
     ・作曲家の忘我
     ・カメラマンの技術
     ・照明の知恵
     ・美術の眼識
     ・ADの徹夜

占いより、天気予報の方が気分は変わる。

一桁だと気分が凹み、二桁だとちょっと嬉しい。バレンタインのチョコの数ではなく、気温の話です(チョコなら一桁だって嬉しい)。

冬の朝は、起きたらまずスマートフォンを取り出してその日の空模様と気温を見てしまいます。晴れか雨かも重要だけど、それと同じくらい気にするのがその日の気温事情。最高気温が一桁だとちょっとブルーな気分で二桁だとちょっといい気分。「最高気温9℃」と「最高気温10℃」。寒いのが大の苦手の僕にとって、たった1℃の違いは、その日の僕の気分に少なくない影響を与える。

ふとんから起き、顔を洗った後は、テレビをつけ今度はお天気お姉さんをチェック。今日もかわいいな、と朝の眼福を味わいつつ、肝心の予報も聞き漏らしません。2月の寒い日々の中、「今日は4月下旬並の気温です」というフレーズがお天気お姉さんから飛び出した日には、星座占いの1位よりテンションは上がるし、反対に「今日はかなり冷え込みそうです」というバッドフレーズが放たれた場合にはひどく気分は落ち込む。僕にとって2月の天気予報は、朝の占いより、その日の気分を左右するものである。

昨日、「冬の寒さは今週末までです。来週からは桜咲く春の暖かさになるでしょう」というグッドニュースがお天気お姉さんの口からも、スマートフォンの天気予報アプリからも流れた。いよいよ、12月からつづく、僕を震え上がらせる凍り付く冬は北の山のさらに向こう側へ消え去り、南から暖かな春が来る。気温が上がるほど、僕のテンションも上がっていく。松任谷由実の名曲じゃないけれど、この時期になったら思うことはこれだけ。春よ来い。

バレンタインのチョコは苦い。

チョコレートといえば、甘いお菓子である。疲れ切った体や頭から煙が出るくらい考えた脳味噌に甘い糖分を届けるお菓子である。しかし、そんなスイーツな世界に人々を誘うチョコも苦くなる日がある。バレンタインだ。この日ばかりは、甘くておいしいなんて言ってられないときがある。女友達や職場の女性陣から義理としてもらうチョコはべつに苦くない。ちゃんと甘くておいしい。打ち合わせで、ついでにどうぞ、という感じていただくチロルチョコだって、じゅうぶんに甘い。

だが、思いを寄せる人からもらう義理チョコは甘くない。そこにはちょっぴり苦みがある。もらって嬉しいことにかわりはないが、切なさがある。さらに言えば、本命チョコを他の男に用意している中での義理チョコほど苦しいものはない。この世の終わりである、といったら言い過ぎでしょうか。まあ、そのくらい落ち込む事件だ。甘い、なんて感じていられない。むしろ、甘酸っぱい。

振り返ってみると、バレンタインに身も心も舞い上がるような甘い思い出はない。苦い思い出ばかりである。そうなのだ、バレンタインのチョコは苦いのだ。

今週のお題「わたしとバレンタインデー」。