失笑の多い人生を過ごしている。

僕にはいいかげん直した方がいいよなあと思いつつ、改善されていない悪習がある。駄洒落である。駄洒落を言うのは誰じゃ? と口走ったことはないが、自分のプロフィール欄に「癖」の項目があれば、「駄洒落」と記して違和感のないくらい習慣化している。もっとも、「駄洒落」というワードならまだ恥を感じることは少ないが、ほぼ同義語の「おやじギャグ」として周囲のみなみなから指摘されてしまうと、とたんに赤面度はあがる。

先日も仕事の打ち合わせ中に、入社2年目の若手が、

「蛇の飼育ブログを書いてます」

と言った。それに対して僕は間髪入れずに、

「ヘビーだぜ、と書いてるんだね」

と口にした。その場は失笑の嵐である。特に20代前半の若者たちからは「あはは」と笑いつつも、目は笑っていない。むしろ、おやじギャグだ、という蔑みの目でこちらを見ている。僕はいたたまれなくなり、ああ、またやってしまったと肩を落とす。そして後悔が泥となって心を廻流する。

が、しかし、思い過ごしかもしれないけれど、その場の空気はいささか温まったと思う。張りつめていた空気の中に、風船がぷかぷかと浮かんできたような朗らかな空間に変わった。その証拠に「ヘビー以後」は、堰を切ったように若者たちからの意見が飛び交い始めた。「こんな下らないことを言っても許される」と思ったのかも知れない。

僕はおっさんになったからといっておやじギャグを言い始めたのではなく、それこそハタチそこそこから、この手の駄洒落は言っていた。周りの人を笑わせたい、楽しませたい、という思いが僕の根底に根強くあったからだ。でも、そのために、駄洒落を用いるという愚考はなかなかどうしてうまくいかず、大笑いよりも失笑の多い人生を送っている。

だが、先のように周りの空気をマッチの火くらいは温めている、と思うと、こういう癖も悪くないぞ、と考え直してしまい、結局、僕の悪習は改善されない。そのうち、いつか本気で煙たがれれる前に辞めなければいけないと思っている。いずれ、ニコチン中毒やアルコール中毒のようにダジャレ中毒になってしまう前に。

姿勢は伝染する。

何十キロもの距離を走り、見上げるほど長い階段を何往復もし、ジムに戻ってひたすらミットを打ち、それからサンドバックに全力で拳を放ち、シャドーをし、筋肉トレーニングを行い、また走りに行く。大事な一戦に向けて、血反吐が出るくらい体を追い込むプロボクサーの姿を見ると、心を打たれて、自分もがんばろう、という気持ちが湧いてくる。

ラッセル・ウェストブルックというNBAプレイヤーがいる。彼は、その日の試合がまるで人生最後の試合のように、燃え尽きて灰になってしまうかのように一試合、一試合、望んでいる。命を削っていると思えてならない気迫のこもったプレーを観客に見せてくれる。そういう魂のこもった姿を見ていると、なんだか感傷的になるし、自分の心に火がボッとつくことがある。

ももいろクローバーZも鼓舞されるときがある。僕はライブに足を運んだことはないけれど、YouTubeで彼女たちのライブ映像を見ているだけでも、全身全霊で、魂を込めて歌って踊って大勢の観客を楽しませようとする姿を見ていると、画面越しにエネルギーをもらって、自分もやるぞ、という気持ちが心の底からぶくぶくと湧き出てくる。

同じように、友人や同僚のがんばっている姿を見ると、その姿勢に感化され、僕の気力も湧いてくる。「がんばれ」と言葉で言われるよりも、がんばれる気がする。だから、というわけでもないけれど、近くにいる誰かを応援したいとき、「がんばれよ」と声をかけるのもいい。でも、自分のがんばる姿を見せることが何よりのエールになるかもしれない。きっと、言葉より伝えることができるはず。姿勢というのは伝染する力があると思うのだ。

薬局に売っていない薬

■名前:エイガ

■価格:100~2200円

■効能:・心の棘を取り除きます
     ・沈んだ気持ちを晴らせてくれます
     ・カタルシスを味わせてくれます
     ・気分を高揚させてくれます
     ・ご飯がおいしくなります

■用法:家で観るより、映画館で観たほうが効果は覿面(てきめん)。
          大画面、音響設備、周囲の笑い声・泣き声、
            これらの環境が薬の力を倍増させます。

■用量:個人によるが、一日1錠 or 2錠が好ましい。

■成分:・監督の情熱
     ・脚本家の苦しみ
     ・演者の冒険心
     ・作曲家の忘我
     ・カメラマンの技術
     ・照明の知恵
     ・美術の眼識
     ・ADの徹夜

占いより、天気予報の方が気分は変わる。

一桁だと気分が凹み、二桁だとちょっと嬉しい。バレンタインのチョコの数ではなく、気温の話です(チョコなら一桁だって嬉しい)。

冬の朝は、起きたらまずスマートフォンを取り出してその日の空模様と気温を見てしまいます。晴れか雨かも重要だけど、それと同じくらい気にするのがその日の気温事情。最高気温が一桁だとちょっとブルーな気分で二桁だとちょっといい気分。「最高気温9℃」と「最高気温10℃」。寒いのが大の苦手の僕にとって、たった1℃の違いは、その日の僕の気分に少なくない影響を与える。

ふとんから起き、顔を洗った後は、テレビをつけ今度はお天気お姉さんをチェック。今日もかわいいな、と朝の眼福を味わいつつ、肝心の予報も聞き漏らしません。2月の寒い日々の中、「今日は4月下旬並の気温です」というフレーズがお天気お姉さんから飛び出した日には、星座占いの1位よりテンションは上がるし、反対に「今日はかなり冷え込みそうです」というバッドフレーズが放たれた場合にはひどく気分は落ち込む。僕にとって2月の天気予報は、朝の占いより、その日の気分を左右するものである。

昨日、「冬の寒さは今週末までです。来週からは桜咲く春の暖かさになるでしょう」というグッドニュースがお天気お姉さんの口からも、スマートフォンの天気予報アプリからも流れた。いよいよ、12月からつづく、僕を震え上がらせる凍り付く冬は北の山のさらに向こう側へ消え去り、南から暖かな春が来る。気温が上がるほど、僕のテンションも上がっていく。松任谷由実の名曲じゃないけれど、この時期になったら思うことはこれだけ。春よ来い。

バレンタインのチョコは苦い。

チョコレートといえば、甘いお菓子である。疲れ切った体や頭から煙が出るくらい考えた脳味噌に甘い糖分を届けるお菓子である。しかし、そんなスイーツな世界に人々を誘うチョコも苦くなる日がある。バレンタインだ。この日ばかりは、甘くておいしいなんて言ってられないときがある。女友達や職場の女性陣から義理としてもらうチョコはべつに苦くない。ちゃんと甘くておいしい。打ち合わせで、ついでにどうぞ、という感じていただくチロルチョコだって、じゅうぶんに甘い。

だが、思いを寄せる人からもらう義理チョコは甘くない。そこにはちょっぴり苦みがある。もらって嬉しいことにかわりはないが、切なさがある。さらに言えば、本命チョコを他の男に用意している中での義理チョコほど苦しいものはない。この世の終わりである、といったら言い過ぎでしょうか。まあ、そのくらい落ち込む事件だ。甘い、なんて感じていられない。むしろ、甘酸っぱい。

振り返ってみると、バレンタインに身も心も舞い上がるような甘い思い出はない。苦い思い出ばかりである。そうなのだ、バレンタインのチョコは苦いのだ。

今週のお題「わたしとバレンタインデー」。

だから、髪をセットする。

男子トイレに入ると、時々、見かける光景があります。鏡の前で、前髪をくねくねし、おでこを少しだけ出し、と思ったら、またおでこを隠す、といった類の髪型のセットです。女子トイレに入ったことはないので(あったら問題である)わからないですが、女性陣も鏡の前で、多少の髪のお直しはされているのではないかと思います。

そんな男子諸君の髪型のセット事情ですが、時々、そんなにやる? というくらい、長い時間をかけてセットする人を見かけます。想像するに、おそらく、このあと彼には女性陣にアピールする大事な戦場が待っているのでしょう。そのときにバシッと決めて望みたい。そういう心持ちがあるのだと思います。ただ、ハタから見ている分には彼の努力むなしく、そこまで印象的に変わったような気はしませんし、かっこよさのパラメータ数値はミリ単位でしか増していない。もしくはマイナスになっている可能性もある。それでも、彼の手が止まることはありません。千住観音のように、あらゆる角度から手を動かし、ベストな髪型に導こうとしています。でも、実状はほとんど変わっていないので、果たして彼の努力に意味はあるのだろうか? むしろ、いつまでやるんや、ええかげん、手を洗う人の邪魔やぞ、と思うわけです。

が、自分が当事者になるとこの気持ちはよくわかります。僕も大切な人に会う前には、トイレに立ち寄って、髪型をセットし直します。髪の身繕いをしたくなります。でも、先述したように、周囲からみたら、ほとんど変わっていないように思われるでしょう。けれど、明確に変わっているところがあるのです。それは心です。気分が変わるのです。たとえ、見た目が変わってなかったとしても、自分なりにキマッタ!と思える髪型になったなら、心持ちがいくぶん良くなります。自信なんかもちょっと湧いてきます。だから、大いなる時間をかけて髪型を直すお兄さんの努力も、ちっとも無駄なんかではないのです。髪型のセットは、心をセットすることなのです。

悪意の源泉は悪意に限られるのか。

朝、通勤で道を歩いているとき、目の前で鳥の糞が落ちた。 あと一歩、前を歩いていたら、僕の頭上にピタリと命中していただろう。もし髪の毛に当たっていたら、ひどく落ち込んだ1日になったに違いない。だが、上司に「鳥の糞が落ちてきたんです」と言ったって、「だから?」で終わりである。そこに軽い同情はあったとしても、数秒後には上司は忘れている。他人にとってどうだっていい話だ。

しかし、あの鳥は僕を狙ったのだろうか。僕の朝のルンルン気分が気に食わなくて狙い撃ちしたのだろうか。それとも、ただ便意を催したから尻の穴から糞をフンッ!と発射しただけなのだろうか。 おそらく、後者だと思う。そこに彼の意思はないはずだ。きっと。

本人に悪意はなくても、周りに被害を及ぼす事態はままあると思う。悪意のない悪意的行為が世の中には、はびこっているのである。その悪意的行為を被った人が、さらなる悪意を生んでしまう。悪意の波紋が同心円状に大きく広がってしまう。でも、鳥の糞のように悪意の源泉は悪意でないこともあるのである。 意図せず、誰かに被害を与えてしまうことがあるのだ。その時に、僕は許せる大人になりたいと思う。たとえ、電車の中で足を踏まれても、これは、鳥の糞だ、と思うようにする。