好きになるのに欠点の多さは関係ない。

ほんとうなのかと思われるかもしれないけれど、僕は文庫本よりも、ハードカバーの本が好きだ。かつては、本といえば文庫本だった。価格は良心的だし、持ち運びにも場所を取らないし(コートの裏ポケットにだって入れられる)、なにより単行本に比べて軽い。手に持って読んでいてもそうかんたんには腕は疲れない。そうして長らく文庫本生活を送っていたけれど、あるとき、試しにKindle Paperwhiteを買ってみたら、どっぷりそっちの沼にハマッてしまった。Kindle沼もなかなかどうして底の深い沼で、魅惑的な点がいくつもあって、つぎからつぎへとKindle版の本を買いあさった。セール価格本の一覧を眺めては、良さげな本を見つけると綺麗なお花を摘むようにポチポチと購入ボタンを押した。いまでは僕のKindleには300冊以上の本が収まってる。それからメモ機能も便利で、気になった言葉をマーカーのように線を引くと、パソコンに自動保存でストックされるようになる。この機能もとても便利で愛用していた。

それがある日を境に、というわけでもなく、気がついたら、ハードカバーの分厚い本がたまらなく愛おしくなってしまっていた。本は重たいし、値段はほかの書籍媒体より割高だし、場所はとるし、携帯に不便な代物だ。そんな欠点の多いハードカバーの本をいま常にバッグに忍ばせてる。うちに帰っても、ハードカバーの本を開くことが多い。あのクリーム色の紙と広いスペースに印字された文字の群を見るのがなぜかひどく愛おしくなっている。誰かを好きになるのに理由がないのと同じように、理由なく、本能的にハードカバーの本を好きになっている。本の中身に関してはそこまでこだわりはない。ある程度、美しい文体で書かれているものならば、とくに作者も気にならない(その点でビジネス本よりも、小説を好んで読む)。

もしかしたら一周まわってまた文庫本に戻るかもしれないけれど、いまのところ、そういった気分に変わる片鱗はない。いま、高校生の恋愛のようにハードカバーの本に恋をしている。

この世界で僕だけが取り残されているように思えた。

雲の隙間から一羽の鳥が飛んでいくのが見えた。大空を優雅に舞っているではなく、一点の目的地に向かって力の限り全速力で飛んでいるように見えた。僕の人生であのくらい真剣にどこかに向かって駆け抜けたことは一度だってあっただろうか。脇目も振らずに走り抜けたくなる目的地は、物理的にも、精神的にも、これまでの人生でただの一度もなかったと思う。薄れゆく記憶を草木をかき分けるように青春時代や少年時代まで遡ってみても、一目散に駆け抜けた記憶は見つからない。

あの鳥が懸命に向かう先にあるものは何なのだろうか。もう一度、僕は彼の方向に目を向けた。しかし、すでに跡形もなく、あの鳥は消えていた。僕の体を背中から強い風が通り抜けた。彼は弾丸のように目的地に向かってまっすぐ突き進んでいた。この世界で僕だけが取り残されているように思えた。

アイスミルクではなかったですか?

冬の寒い朝、カフェに入って「ホットミルク」を注文した。ほとんど待たないうちに店員さんは僕が頼んだドリンクを提供してくれた。しかし、その中身は「ブレンドコーヒー」だった。

おかしいなことが起きてると僕は思った。まちがいなくホットミルクと言ったはずだし、代金もホットミルク代を支払ったはずだ。このままコーヒーを受け取ろうともしたが、とはいえホットミルクを飲みたかったので、「ホットミルクを頼んだんですが…」と小声で指摘したら、「アイスミルクではなかったですか? 失礼しました」とその女性店員さんは申し訳なさそうに謝った。

いや、ちょっと待ってくれ。アイスミルクでもない。よし、わかった。百歩譲って(別に譲らなくてもいいですが)仮にアイスミルクだとしましょう。ただ、アイスミルクだとしても、お姉さんが提供してくれたのはブレンドコーヒーですぞ。

そのまちがいの積み重ねに僕は小さく笑ってしまった。おそらくお姉さんも気づいたのだろう。恥ずかしさと申し訳なさを含んだ笑みを僕に投げた。

冬の冷えた日曜日の朝が少しだけ微笑ましくなった。寒いから家にこもってぬくぬくしてようかと思ったけれど、外に出てみると、こういう微笑みの事件が待っていることもある。

幻の春

まるで空気の衣替えしたように、東京は暖かくなり、春の陽気を感じずにはいられなかった、今日という日。ただそれだけなのに、ただ暖かくなっただけなのに、ひどく心が昂ぶった。

春になると花たちが一斉に咲き始めるように僕の体も高揚感に満たされて、何かが咲きそうな気分になった。そのまま体から花が咲いて、道端で日向ぼっこできたらいいのにと思った。そうすれば会社に「すみません、僕、花が咲きました」と言って休むことができる。そして月曜日をのんびりと過ごすことができる。そういう一日だってたまには悪くないと思う。

夜になると、冬が引き返し、また寒くなった。日中の春の陽気は幻だったかのように。これからまた寒い日がつづくのだろうか。僕のスマートフォンに「明日は8度低い予報です」という通知が届いた。窓の外を時折突風のような強い風が吹く。コートを脱ぎ、シャツ一枚で外を歩ける日まで、あとどれくらいの夜を過ごせばいいのだろう。

「出会い頭の衝突にご注意ください」

平日の朝の通勤時間帯。東京メトロ半蔵門線の九段下駅のホームから階段を上った先で、あれは聞き間違いではないと思うんだけど、「出会い頭の衝突にご注意ください」という駅員の案内を耳にした。

繰り返しアナウンスをしていたところをみると、おそらく通勤者同士の衝突事故がたびたび発生していたのだろう。もしかしたら取っ組み合いのケンカまがいの揉め事もあったのかもしれない。しかし、人で溢れかえっているとはいえ、そう何度もぶつかり事故が発生するのだろうか? と、その時は不思議に思っただけだった。

それからあとでこの出来事を振り返ってみると、出会い頭の衝突が起こるということは、運命の出会いが起こりうるスポットでもある、と僕の頭の上にピコンと電球が灯った。恋愛ドラマや恋愛漫画の古典のひとつである、「あっ!」「きゃっ!」とぶつかったことがきっかけで恋に落ちる事件がここでは実際に起こりうる可能性があるということだ。そういう運命の出会いスポットでもあるのだ。九段下駅は。ほほう。

とはいえ、一歩間違えれば、おっさん同士のぶつかりあいだ。みなが急いで通勤している時に、力士の立合いのごとく、ガツン!と衝突するのはそれはそれで恐ろしい。理想の相手とぶつかって、人格が入れ替わり、君の名は?なんていう映画の始まりのような物語は万が一にも起きないのである。サラリーマンの多い朝の時間帯だ。可能性としては、おっさんとおっさんの出会いが多そうだ。そしてたとえその二人が入れ替わり、君の名は?と言ってもたいしてドラマは起きない。おっさんがおっさんになるだけだ。

後日、朝に九段下駅を通ってみたら、あのアナウンスはもう聞こえてこなかった。あの日の声は僕の聞き間違いだったのだろうか。たしかにはっきりと耳にしたのだけれどなあ。

赤字の世界。

制作者の端くれとして、上司やクライアントから赤字をいただくことがある。“ことがある”というよりも、ほとんど必ずといっていいほど、赤字をいただく。切れ味鋭い刀で全身を切り刻まれることもあれば、急所をひと突きするような深手を負うこともある。無傷のまま、作ったものが世の中に出るということはあまり記憶にない。ものを作るということは時に銃弾を、時に刀傷を負うことを覚悟しなければならないと思っている。

先日、肺腑をえぐられる赤字をいただいた。そういう深い傷を負うと自分がダメ人間に思えてくる。いや、実際ダメ人間だということはあまり否定できないけれど、その事実が重くのしかかってくるのです。自分の存在価値なんてないんだ、とか、またひとつ信頼を失った、とか、負の分子が頭の中を駆け巡る。もう何もかも投げ出したくなって山にこもりたくなってしまうけど、でも、振り返った時に、自分の血肉になっているのは、そういう経験をした時です。深手を追う傷ほど、養分になっている。 

街中を見渡せば、人間が作ったもので溢れている。自動車、洋服、建築物、インテリア、食器、家具、文房具、飛行機、公園、庭園、外灯、信号機、テレビ番組、映画など、数え出したらきりがない。そういう世界の中で、一つの赤字も受けずに生まれたものは、おそらくないんじゃないかと思う。そのどれもが、大なり小なりの赤字をもらっているはずだ。僕らの前に顔を出しているときは、涼しい顔をして苦労のあとなんてちっとも見えないけれど、その裏側ではたくさんの汗やたくさんの赤い血が流れている。

この世界は美しいという。しかし、その美しい世界を作っているのは、数々の赤字だ。赤字が美しい世界を作っているのだ(と思う)。

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音が歌っている。【SPECIAL OTHERS ACOUSTIC @上野恩賜公園野外ステージ】

上野公園の野外ステージに到着すると、グッズの待列ができていた。僕もいそいそとその列に加わる。販売開始の時刻になるまであと一時間。水道の蛇口を思い切りひねったような陽光が降り注ぐ。蝉が、今日は一段と暑いぜ!と叫ぶように大きな声で鳴いている。まもなくして背中越しに汗が激しく落ちはじめる。炎天下の中、じっと待つのは辛い。が、8年以上、ファンを続けているアーティストのグッズなので(しかも、欲しいものがあった)、そこはぐっとこらえる。ディズニーランドや、人気のラーメン店を見ていても思うのだけど、人は好きなものに対しては、他人からしたら異常だと思える試練(たとえば行列待ち)も、平気で乗り越えてしまう。そういうのをきっと愛と呼ぶのだろう。
8月25日。午後12時。35.1度。カラスがカーカーと、蝉がミンミンと鳴いている。

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あと4時間後にSPECIAL OTHERS ACOUSTICのライブが始まる。少しややこしいのですが、彼らはふだんはSPECIAL OTHERSというバンド名で活動している。ギター、ベース、ドラム、キーボードの四人編成バンドで、ボーカルはいない。インストゥルメンタルバンドで、ポストロックや、ジャズバンドなどと評されることもある。曲によっては、歌声が入ることもあるけれど、それは歌というよりも、声という楽器を活用している感じだ。認知度で言えば、あまり大勢の人には知られていないかもしれませんが、日本武道館をソールドアウトしているくらいには人気がある。また、彼らの音楽は野外ライブと相性がよく、ひんぱんにフェスに呼ばれ、FUJI ROCK'16ではFIELD OF HEAVENのヘッドライナーも務めている。フェスバンドとも呼ばれるくらい、フェスに顔を出すことが多い。

僕はそんなSPECIAL OTHERSの大のつくファンです。彼らを初めて知った2011年の夏からずっと追いかけていて、関東近郊でライブやフェスがあればいそいそと訪れるし、ほぼ毎日、彼らの曲を聴きながら通勤している。僕の人生のエネルギー源といっても決して過言ではない。それくらい、僕にとっては大切なバンドです。今日はそんなスペアザ(略称)のアコースティックバージョンであるSPECIAL OTHERS ACOUSTICのライブが行われる日であった。

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入場開始の一時間前になり、会場に入る。上野の野外ステージは日比谷の野音と違い、屋根があるので、日光を燦々と浴びることはないので助かる。が、東京ドームみたいに隙間なく屋根があるわけではなく、両サイドは空いているため、そこから射し込む西日がなかなか辛い(ドラムの宮原さんのMCでわかったことだけど、通常は日光を遮る巨大カーテンのようなものがあるらしいのだが、この日は故障により使えなかった)。

タオルを頭に巻いて陽射しをカットするが、それでもレーザービームのような真夏の強い光線はしんどい。影一つない山道を歩いているときのようだ。座っているだけなのに体力が消耗していく。スマホをいじってるだけで、スマホが猛烈な熱を帯びる。まるでフライパンで熱したように。

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16時を回り、メンバーが拍手を浴びながら登場。それぞれが楽器の調子を整えるように音を鳴らす。そして静寂の間が一瞬起きた後、曲に入る。うおー!とか、ヒュー!と、観客の声が響く。僕にとって一年でいちばん幸せな時間が始まった。

彼らの奏でる音楽はいつも優しい。そして、楽しい。体が勝手に揺れてしまう。楽曲に合わせて自然に体がリズムを取る。日は暮れはじめ、暑さは和らぎ、ステキな音楽が鳴り響く。アコースティックという名前が付くとおり、グロッケンとかピアニカとか、普通のバンドが使わない楽器を使って、心動く音楽を奏でている。

「音が歌っている」

それは彼らのライブに行くといつも思うことだった。歌声という楽器を用いない代わりに、ギターやドラムやベースやピアニカから弾き出る音が歌っている。音に意志が宿ったみたいに一音一音が楽しそうに踊っている。その音に呼応するようにオーディエンスの心も揺れていく。その素晴らしい音楽に包まれた時間がひどく愛おしくなる。気がつけば、終演の時間に差し掛かっていた。

アンコールで「wait for the sun」の演奏が始まる。SPECIAL OTHERS ACOUSTICの中でいちばん好きな曲だ。星空と焚き火とともに聞きたくなるような、自然味溢れるとても優しい曲だ。いつまでも聞いていたい。この時間が永久につづけばいいのにと思う。演奏が終わり、メンバーがステージの前に立って拍手を一身に浴びていた。僕も力を込めた拍手をしていた。帰り道の西日がひどく美しかった。

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