薬局に売っていない薬

■名前:エイガ

■価格:100~2200円

■効能:・心の棘を取り除きます
     ・沈んだ気持ちを晴らせてくれます
     ・カタルシスを味わせてくれます
     ・気分を高揚させてくれます
     ・ご飯がおいしくなります

■用法:家で観るより、映画館で観たほうが効果は覿面(てきめん)。
          大画面、音響設備、周囲の笑い声・泣き声、
            これらの環境が薬の力を倍増させます。

■用量:個人によるが、一日1錠 or 2錠が好ましい。

■成分:・監督の情熱
     ・脚本家の苦しみ
     ・演者の冒険心
     ・作曲家の忘我
     ・カメラマンの技術
     ・照明の知恵
     ・美術の眼識
     ・ADの徹夜

占いより、天気予報の方が気分は変わる。

一桁だと気分が凹み、二桁だとちょっと嬉しい。バレンタインのチョコの数ではなく、気温の話です(チョコなら一桁だって嬉しい)。

冬の朝は、起きたらまずスマートフォンを取り出してその日の空模様と気温を見てしまいます。晴れか雨かも重要だけど、それと同じくらい気にするのがその日の気温事情。最高気温が一桁だとちょっとブルーな気分で二桁だとちょっといい気分。「最高気温9℃」と「最高気温10℃」。寒いのが大の苦手の僕にとって、たった1℃の違いは、その日の僕の気分に少なくない影響を与える。

ふとんから起き、顔を洗った後は、テレビをつけ今度はお天気お姉さんをチェック。今日もかわいいな、と朝の眼福を味わいつつ、肝心の予報も聞き漏らしません。2月の寒い日々の中、「今日は4月下旬並の気温です」というフレーズがお天気お姉さんから飛び出した日には、星座占いの1位よりテンションは上がるし、反対に「今日はかなり冷え込みそうです」というバッドフレーズが放たれた場合にはひどく気分は落ち込む。僕にとって2月の天気予報は、朝の占いより、その日の気分を左右するものである。

昨日、「冬の寒さは今週末までです。来週からは桜咲く春の暖かさになるでしょう」というグッドニュースがお天気お姉さんの口からも、スマートフォンの天気予報アプリからも流れた。いよいよ、12月からつづく、僕を震え上がらせる凍り付く冬は北の山のさらに向こう側へ消え去り、南から暖かな春が来る。気温が上がるほど、僕のテンションも上がっていく。松任谷由実の名曲じゃないけれど、この時期になったら思うことはこれだけ。春よ来い。

バレンタインのチョコは苦い。

チョコレートといえば、甘いお菓子である。疲れ切った体や頭から煙が出るくらい考えた脳味噌に甘い糖分を届けるお菓子である。しかし、そんなスイーツな世界に人々を誘うチョコも苦くなる日がある。バレンタインだ。この日ばかりは、甘くておいしいなんて言ってられないときがある。女友達や職場の女性陣から義理としてもらうチョコはべつに苦くない。ちゃんと甘くておいしい。打ち合わせで、ついでにどうぞ、という感じていただくチロルチョコだって、じゅうぶんに甘い。

だが、思いを寄せる人からもらう義理チョコは甘くない。そこにはちょっぴり苦みがある。もらって嬉しいことにかわりはないが、切なさがある。さらに言えば、本命チョコを他の男に用意している中での義理チョコほど苦しいものはない。この世の終わりである、といったら言い過ぎでしょうか。まあ、そのくらい落ち込む事件だ。甘い、なんて感じていられない。むしろ、甘酸っぱい。

振り返ってみると、バレンタインに身も心も舞い上がるような甘い思い出はない。苦い思い出ばかりである。そうなのだ、バレンタインのチョコは苦いのだ。

今週のお題「わたしとバレンタインデー」。

だから、髪をセットする。

男子トイレに入ると、時々、見かける光景があります。鏡の前で、前髪をくねくねし、おでこを少しだけ出し、と思ったら、またおでこを隠す、といった類の髪型のセットです。女子トイレに入ったことはないので(あったら問題である)わからないですが、女性陣も鏡の前で、多少の髪のお直しはされているのではないかと思います。

そんな男子諸君の髪型のセット事情ですが、時々、そんなにやる? というくらい、長い時間をかけてセットする人を見かけます。想像するに、おそらく、このあと彼には女性陣にアピールする大事な戦場が待っているのでしょう。そのときにバシッと決めて望みたい。そういう心持ちがあるのだと思います。ただ、ハタから見ている分には彼の努力むなしく、そこまで印象的に変わったような気はしませんし、かっこよさのパラメータ数値はミリ単位でしか増していない。もしくはマイナスになっている可能性もある。それでも、彼の手が止まることはありません。千住観音のように、あらゆる角度から手を動かし、ベストな髪型に導こうとしています。でも、実状はほとんど変わっていないので、果たして彼の努力に意味はあるのだろうか? むしろ、いつまでやるんや、ええかげん、手を洗う人の邪魔やぞ、と思うわけです。

が、自分が当事者になるとこの気持ちはよくわかります。僕も大切な人に会う前には、トイレに立ち寄って、髪型をセットし直します。髪の身繕いをしたくなります。でも、先述したように、周囲からみたら、ほとんど変わっていないように思われるでしょう。けれど、明確に変わっているところがあるのです。それは心です。気分が変わるのです。たとえ、見た目が変わってなかったとしても、自分なりにキマッタ!と思える髪型になったなら、心持ちがいくぶん良くなります。自信なんかもちょっと湧いてきます。だから、大いなる時間をかけて髪型を直すお兄さんの努力も、ちっとも無駄なんかではないのです。髪型のセットは、心をセットすることなのです。

悪意の源泉は悪意に限られるのか。

朝、通勤で道を歩いているとき、目の前で鳥の糞が落ちた。 あと一歩、前を歩いていたら、僕の頭上にピタリと命中していただろう。もし髪の毛に当たっていたら、ひどく落ち込んだ1日になったに違いない。だが、上司に「鳥の糞が落ちてきたんです」と言ったって、「だから?」で終わりである。そこに軽い同情はあったとしても、数秒後には上司は忘れている。他人にとってどうだっていい話だ。

しかし、あの鳥は僕を狙ったのだろうか。僕の朝のルンルン気分が気に食わなくて狙い撃ちしたのだろうか。それとも、ただ便意を催したから尻の穴から糞をフンッ!と発射しただけなのだろうか。 おそらく、後者だと思う。そこに彼の意思はないはずだ。きっと。

本人に悪意はなくても、周りに被害を及ぼす事態はままあると思う。悪意のない悪意的行為が世の中には、はびこっているのである。その悪意的行為を被った人が、さらなる悪意を生んでしまう。悪意の波紋が同心円状に大きく広がってしまう。でも、鳥の糞のように悪意の源泉は悪意でないこともあるのである。 意図せず、誰かに被害を与えてしまうことがあるのだ。その時に、僕は許せる大人になりたいと思う。たとえ、電車の中で足を踏まれても、これは、鳥の糞だ、と思うようにする。

シーソーゲーム 〜勇敢な”変”の歌〜

あれは確か僕が小学6年生の修学旅行のときのことだった。栃木の日光にバスで向かう途中、車内ではクラス全員でヒット曲を歌うカラオケ大会のようなイベントが催されていた。歌の選曲はサザンオールスターズ、Mr.Children、スピッツ、SMAP、globe、安室奈美恵と当時(現在でも)のヒットメーカーがずらりと並んだラインナップである。その有名アーティストの数々の名曲を叫ぶように僕たちは楽しく歌っていた。先生としても子どもたちに楽しんでもらう目的のほかにバスの時間を飽きさせず、好き勝手に騒がせない意図もあったと思う。その狙いは成功していた。夢中になって僕らは歌っている。ただ、いくら大ヒット曲とはいえ、んーんんー、と鼻唄にならず、どうして淀みなく歌えたのかというとみんなの手元に歌詞カードが配られていたからだ。それはクラスの子が手書きで作ったものだった(もちろん原本をコピーして配られた)。

事件はMr.Childrenの「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~」が流れた時に起こる。ファンの方はご存知だと思いますが、タイトルに「恋」という文字が含まれていることからもわかる通り、この曲は歌詞に「恋」という言葉がたびたび出現する。そして僕たちに配られた歌詞は、「恋」という部分が押し並べて「変」になっていた。「勇敢な恋の歌」という部分は「勇敢な”変”の歌」という具合に。「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」は「”変”なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」と書き換えられていた。もちろん意図的にではなく。

当時小学生だった僕たちは、この歌詞に湧いた。男の子も女の子も関係なく大声を出して笑った。「恋(変)」というフレーズが出てくるたびに車内が揺れるくらいの笑いが生まれた。大人になると大して面白くないことも小学生はそういう些細な間違いが大好物だ。僕も腹を抱えて笑っていた。それから「歌詞を書いたの誰だー?」と犯人探しのようなことが起き始めた。僕は窓際の席に座っていたTさんがうつむいて恥ずかしそうに顔を赤らめているのを見た。みんなが騒いでいる中、Tさんだけは早く曲が終わりますようにと祈るような顔で下を向いていた。彼女が書いたのだろう、とすぐにわかった。

彼女はみんなを笑わせたくてわざと間違えたわけではない。本当はみんなに歌ってほしくて、楽しんでほしくて、授業外の時間を使って、一所懸命に歌詞を書いたのだと思う。大人になった今ならわかることも、子どもの頃に、書いた人の気持ちを汲み取ることなんてできるわけがなく、車内中に響く笑いは切れ味の鋭いナイフとなって彼女の心を切り裂いた。みんなが笑うたびに彼女は傷ついていく。僕も笑っていたけれど、Tさんの姿を見ていたら、心から笑うことができなくなっていた。

小学校の頃の記憶なんて、流れる雲のようにどこかに消え去ってしまったが、これは何十年たっても忘れられない出来事です。僕はこの時、笑うことで人を傷つけることがあると学んだような気がします。

散歩の方位磁針は心である。

目的のない散歩というものは心が方位磁針になる。目的地があるならば、ゴールに向かって弾丸のように行進するのだが、行くあてのない散策は感情のパラメーターが上昇した方位が進路だ。心のアンテナを受信した道が進行方向になるのである。

ぼくはあたかもコロンブスになった気分で自分にとっての新大陸を発見すべく、心の機微に従いながら、左足と右足を交互に繰り出していた。自分だけの地図を手作業(というよりも足作業)で作り上げていくような高揚感もあった。テクノロジーが発展し、地球上の地図が詳細に描き出されたとしても、自分にとっての世界はまだまだ空白だらけなのである。

知らない駅に降り、知らない土地を歩き、知らない店と出会う。なんの予定もなく、ぶらぶらとする休日は、それはそれでなかなか楽しい冒険の日なのである。