コーヒーは砂時計のように消えていく。【カフェ・ラパン】

JRの御徒町駅から歩いてほどない場所に『カフェ・ラパン』という喫茶店がある。ぼくはこのお店の店主が淹れてくれるコーヒーとタマゴトーストのファンで折をみてはいそいそと訪れます。

コーヒーは決まって「ラパン・ブレンド」を頼みます。ラパン・ブレンドは深煎りのブラジルをベースに、苦みとコクと甘みを重視したブレンドで、ミルクを入れると一層まろやかになる。ミルクを入れる前の苦味も、入れた後の甘味もどちらの味わいも好きです。一杯の中に二度のおいしいがある。タマゴトーストはタマゴとキュウリとレタスが厚切りのトーストのあいだからハミ出るほどサンドされていて、口を大きくひろげないと咥えられない分厚さがある。味も申し分なく、カリッとサクッとこんがり焼けたトーストの舌触りも、具材との絡みも絶妙の塩梅でなんど食べても感激してしまう。コーヒーとタマゴトーストを注文して1100円。これでなかなか幸せな気持ちになる。

しかし、そんなささやかな幸せなひとときは──幸せなひとときだからこそ──あっという間に過ぎていきます。本のページをめくるとともに、分厚いトーストを頬張るとともに、コーヒーもするすると消えていく。砂時計の時間のように静かに過ぎ去っていく。別の時間性の世界にトリップしたような浮世離れした時間も、気がつくと大皿に置かれたタマゴトーストは跡形もなく消え、カップの底は尽きている。すべての砂が落ちきったあとの切なさが胸に染み渡ってくる。

ラパン・ブレンドの豆を購入して持ち帰り、『カフェ・ラパン』と同じひとときを自分の部屋でもつくれないものかと、せっせと豆を挽いてコーヒーを淹れてみるんですが、しかし、なんど淹れてもあの時間は現れない。それは決して再現することのできない時間なのです。

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ほしいものなんて、本当はないのかもしれない。

ある万年筆がほしかった。喉から手がでるほどほしかった。デザインは文句のつけどころがないほど気に入ったし、文房具屋に赴いて試し書きをさせてもらったところ、書き心地も申し分ない。書くという行為を高いクオリティでもてなしてくれる万年筆で品格もある。胸ポケットに挿していつも連れ歩きたい──この気持ちはぼくにとって高級車を乗り回してみたい気持ちとほぼ同義であった。それくらい、この万年筆への憧憬があった。

しかし、予算の都合で断腸の思いで諦めた。ほとばしった熱を抑えるのはとても簡単なことではなかった。あくる日もあくる日も、インターネットで写真を眺め、レビューを読みあさり、この万年筆ライフの記事に憧れを抱き、うん、そうだよな、素晴らしいんだよな、とその熱は冷めるどころか燃え盛っていった。 女性に心底惚れてしまったように万年筆への想いは募る一方だった。

だが、そんな火照った愛も、時が過ぎれば、一種の気の迷いだったかのように鎮火した。いまでも、手に入れたい欲求はあるけれど、あの時の熱量はもうない。

時間というのは効果絶大の熱さましだ。ふくれあがった欲求を鎮めてくれる。思えば、時がたっても熱が冷めないものこそ、心の底から求めているものかもしれない。が、これまでの人生で熱の冷めなかったものはなかった(と思う)。本当にほしいものなんて実はないのかもしれない。 それは南アメリカ大陸のアンデス地方に伝わる黄金峡のように幻影に過ぎないのだ。きっと。

どうして「尻笛」ではないのだろう。

あまり美しくない話です。
ぼくはオナラをよくします。「よく」という二文字に背負わせるのも憚られるくらい、頻繁にこきます。もしこれまでのぼくのあらゆる行いを数値化したら、くしゃみの回数より、放屁の回数のほうが多いと断言できる。それもかなり圧倒的に。すみません。鼻を高くして自慢するようなことではないですね。 

ぼくの肛門の門番はセキュリティチェックがとても甘いみたいで空気やガスを見かけると、通ってよし、と見境なく次から次へと通過させてしまう。幸いにも(ほんとうに幸いにも)無臭であることが多く、これまでに怒り心頭の被害届を受け取ったことはありません。それでも、飲みこんだ空気や腸の内容物の発酵によって発生したガスを、肛門から排出して周囲に撒き散らしている事実に変わりない。もしぼくの近くで、ブッと音が鳴れば、ほぼ疑いの余地なくわたくしが容疑者なのである。被害届を受け取った日には、黙って罪を認め、おとなしく手錠をはめなければならない。しかし、今回お話ししたいのは、ぼくのこうした罪の告白ではないのです。
 
問いたいのは名前であります。ぼくは思うのですが、口からでる音を「口笛」、鼻からでる音を「鼻笛」と呼ぶのなら、尻から出る音は「尻笛」と呼んでもいいのではないだろうか。むしろ、そう呼ぶべきなのではないのか。どうしてお尻から出る音は「屁」や「オナラ」というまったく新しい名詞が付けられてしまったんだろう。もし「尻笛」という名であったなら、ここまで罪の意識を感じることもなかったと思うのです。あるいは、罪悪感を抱かせるために「オナラ」という名前を授けたのだろうか。ウィキペディアによると次のように書かれている。
 
「おなら」は「お鳴らし」が略されてできた女房言葉で、「屁」よりも上品(あるいは婉曲)な言い方であるとされており、およそ室町時代にできた言葉である。

「屁よりも上品な言い方」であるならば、「尻笛」の方が上品だと思いませんか。まあ、もし「尻笛」という名前になってしまったら、口笛のような軽やかさで日本列島は人間の肛門から出たガスで充満されていくことになるかもしれないですが。

トイレットペーパーの芯をいつも交換しているような気がする。

ぼくは宝くじを買っても当たったことはないし、ロト6を買っても当たったことはないし、何かのくじで当選する、ということは記憶の限りないとは思うんだけど(なので、買うこともほとんどありませんが)、トイレットペーパーの芯の交換にはよく当たる。会社のトイレでしょっちゅう芯を変えている。その当選回数の多さから、もうこういう星のもとに生まれてしまったんだと諦めているところもある。でも、どうせならイタリア旅行とか、大型テレビとか、現金100万円(1億円とは言いません)とか、もっと「幸運」といえるもので当たりたいよなあという気分はあります。大便所の当選だけに「うん」は付いていると思うんだけど。
 
このあいだ3日連続で芯の交換に当たりました。人は誰かの役に立つために生まれてきたというけれど、芯の交換役では、ぼくは間違いなく人の役に立っている。      

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