ほしいものなんて、本当はないのかもしれない。

ある万年筆がほしかった。喉から手がでるほどほしかった。デザインは文句のつけどころがないほど気に入ったし、文房具屋に赴いて試し書きをさせてもらったところ、書き心地も申し分ない。書くという行為を高いクオリティでもてなしてくれる万年筆で品格もある。胸ポケットに挿していつも連れ歩きたい──この気持ちはぼくにとって高級車を乗り回してみたい気持ちとほぼ同義であった。それくらい、この万年筆への憧憬があった。

しかし、予算の都合で断腸の思いで諦めた。ほとばしった熱を抑えるのはとても簡単なことではなかった。あくる日もあくる日も、インターネットで写真を眺め、レビューを読みあさり、この万年筆ライフの記事に憧れを抱き、うん、そうだよな、素晴らしいんだよな、とその熱は冷めるどころか燃え盛っていった。 女性に心底惚れてしまったように万年筆への想いは募る一方だった。

だが、そんな火照った愛も、時が過ぎれば、一種の気の迷いだったかのように鎮火した。いまでも、手に入れたい欲求はあるけれど、あの時の熱量はもうない。

時間というのは効果絶大の熱さましだ。ふくれあがった欲求を鎮めてくれる。思えば、時がたっても熱が冷めないものこそ、心の底から求めているものかもしれない。が、これまでの人生で熱の冷めなかったものはなかった(と思う)。本当にほしいものなんて実はないのかもしれない。 それは南アメリカ大陸のアンデス地方に伝わる黄金峡のように幻影に過ぎないのだ。きっと。