子どもがかわいいのはどうしてだろう?

 付き合いの長い友人の息子にジョージという男の子がいる。つい先日4歳になったばかりの幼児だ。彼は親も手を焼くようなヤンチャ坊主で素直に言うことを聞くタイプではない。

 このあいだ、ジョージパパ(つまり、僕の友人)、ジョージ、僕の3人で、ショッピングモールのフロアの一角にあるゲームコーナーで遊んでいたとき、彼はいろんなゲームを楽しんで、なかなか帰ろうとしなかった。気に入ったゲームを手当たり次第にやり込み、パパが「もうお金ないからダメ!」と強い口調で言っても、「お金ある!ある!」と断固拒否していた。しまいにはゲームコーナーから去ろうとするパパに対して、両手を大きく広げ、「ダーメ!ダーメ!」と喚きながら通路を通せんぼして、パパの財布からお金を根こそぎ奪おうとしていた。その欲望は、ビュッフェで腹十二分目まで満たしたい大人たちのように尽きることはなかった。

 それから、ジョージは甘えん坊の特性が強く、パパがどんなに疲れていても、おかまいなしに「パパ、抱っこ」とおねだりし、ひどく困らすことがときどき起こる。パパが「もう疲れたよ。ジョージくん歩いて」と懇願しても、ジョージは泣き喚いて抱っこされることを望んだ。そういうジョージとパパのあれこれを垣間見ていると、独り身の僕にとって、子を持つということの大変さを、その一端ではあるけれど、身につまされて感じ取ることができた。

 まだある。ジョージは独占欲が強いのだろう。たとえば公園で遊んでいるときに、年が同じくらいの園児と、その場で知り合って一緒に遊ぶときがある(子どもたちの世界では、知らない子もすぐ友だちになってしまう。ちょっと羨ましいです)。砂遊びでシャベルやバケツやおもちゃのダンプカーなどの道具を使ってみんなで遊んでいると、ジョージは自分が使用している砂遊び道具を絶対に譲ろうとしない。他の子どもたちは分け合って遊んでいるにも関わらず、唯我独尊のジョージは、自分のものでもない遊び道具を鋼鉄の意志で誰にも渡そうとはしない。ひどくわがままな園児なのだ。

 そんな生意気坊主のジョージだけれど、パパにとっても、僕にとっても、とてもかわいい存在だ。パパを困らすに飽き足らず、僕のことも困らせたりすることもあるけれど、それでも、「ジョージとは遊びたくない」という気持ちが芽生えることはないし、嫌いになることもない。それどころか、親でもないのにかわいいと思ってしまう。僕はもともと子どもが好きではないし──むしろ、どちらかといえば鬱陶しい存在だと思っていた──積極的に関わりたいと思ったことは露ほどもなかった。でも、ジョージとたびたび遊んでいると、子どもってかわいいんじゃないかと僕の固定化された常識が覆されていくのだ。

 かわいいと思えなかった子どもをかわいいと思ってしまう。その劇的な変化に自分でいささか驚いたりしたけれど、どうしてそう思うようになってしまったのだろう。

 これはジョージと何度も触れ合った過程で至った考えだけど、おそらく、子どもたちの屈託のない笑顔に心を撃ち抜かれてしまうのだ。子どもというのは、自分がかつてそうだったとは思えないくらい、とても感情豊かでよく笑う。それも声を出して楽しそうにキャッキャと笑う。たぶん、ジョージが、あるいはヨソの(という表現もおかしいけど)子どもたちが、ずーっとむすっとしかめ面をしていたら、そこまでかわいいとは思わなかっただろうね。ジョージとの触れ合いを通して、笑顔の力をまざまざと見せつけられているような気がします。

 昔の人が「笑顔は人を惹きつける魔法だ」というようなことを言ったみたいだけど、これはこの世界の真理の一つかもしれないですね。

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ジョージパパとジョージ