静謐を買う。秘湯・中房温泉。

山の夜は、真冬の雪夜のように静謐です。僕は今、長野の山奥にある温泉旅館にいます。縁側の椅子に腰掛け、静かな、それでいて、良質な時間を過ごしています。

北アルプスの燕岳の登山口にある「中房温泉」という温泉旅館。東京から電車とバスを約4時間ほど乗り継いで、この山深い谷間に構える温泉地にたどり着きました。中房温泉は、いわゆる秘湯と呼ばれる温泉で、素晴らしい泉質を持つ名湯として知られています。それもそのはず、旅館にある14の湯(14もある!)は、すべて源泉かけ流し。しかも、100パーセントだそうです。加水、加温、循環、着色、塩素の使用は一切せず、敷地内から湧き出る90度の湯を空冷、あるいは水冷で、冷やしているだけです。何も足さず、何も引かず、山と時(とき)がつくりだした湯の美味をそのまま味わえる秘湯の宿です。

開湯は江戸時代の1821年。約200年も前から、営業をつづけています。歴史の長さを証明するように文化財に登録されている古い建物もあり、その日本の原風景を感じさせる建物は、秘湯の地に一層の風情をもたらしています。

内湯と外湯合わせて14カ所もある温泉は、その一つひとつに見どころがあり、とてもユニーク(湯ニーク?)です。ロケーションのいい湯、風流ある内風呂、隠れ湯のような湯、秘湯感をはっきりと感じさせる湯など、ぜんぶ巡ってみたいところですが、とても一日では回りきれません。バラエティ豊かな湯と、その数の多さから、「温泉ランド」の印象を持つ人が多く存在するのも頷けます。

ビュッフェで食材をつまむように、温泉をこんなにハシゴしたのは初めてかも知れません。以前、草津温泉に旅したときも、湯巡りのようなことをしましたが、あれは温泉街という巨大なエリアを巡るものです。ところが、中房温泉では、一つの温泉宿で、いろんな湯を楽しめます。敷地もそれほど広くはないですし、道の途中で食べ物やショッピングなど、寄り道をする場所もありません。純粋に温泉というものだけを求めて湯巡りできます。

温泉好きにとって、なかなかどうして夢のような温泉地ですが、しかし、もしあなたが温泉に対してそこまで恋心を持っていないのであれば、あまりお勧めはできません。温泉の他には、ほんとうに何もありませんから。少し歩けばコンビニがあるよう場所ではないし、観光もできません(燕岳はありますが、「観光」と軽々しく呼べる場所ではない)。歩いても歩いても、山しかありません。

だから、僕は、中房温泉の最大の魅力は、有無を言わさず、温泉だと思っていました。実際に浸かってみても、素晴らしい泉質だと思いましたし、肌はつるつるになりました。いろんな湯をたっぷりと味わい、身も心もほぐれる体験をしました。

ところが、旅館の部屋に戻り、縁側に腰掛けていると、その悠々自適な時間がとても心地よく、ある種の多幸感を感じてしまいました。人間(と一般化していいかはわかりませんが)というのは不思議ですね。何かを与えられている時間よりも、何も与えられなかった時間の方が、豊かだと思ってしまうことがあります。

網戸の外から、自然が奏でる音楽が流れてきます。川のせせらぎ、湧き水(湯)の流れる音、虫の音、風と山の息吹。宿の縁側は自然の演奏会の会場のようです。そして、涼しい風が肌を通り抜ける。絢爛豪華な贅沢もあれば、飾り立てないからこそ味わえる贅沢もある。僕は、この宿の縁側で過ごす時間をひどく気に入ってしまいました。

車の音は聞こえない。バイクの音も聞こえない。人の声も聞こえない。人工的な音がしない。自然によってつくられる静けさしかない。旅館、それも秘湯に泊まるということは、こういう静謐な時間を買うことなんだ。秘湯の宿の魅力は、温泉だけではないのである。

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