おそるおそる歩いた山。【大楠山】

○ 前日譚
行ってみたかった街がある。僕はいまコンクリートジャングルの一角に住んでいるのですが、いずれは自然豊かな街に住みたいなあという気持ちが心の隅にずっとあって、三浦半島の逗子という街に前から興味があった。鎌倉までは行ったことはあるけど、逗子に降り立ったことはなく、いちど訪れて街の空気を肌で感じてみたいと思っていた。

そんなとき、日帰り登山のムック本をパラパラとめくっていたら「大楠山」という山の存在を知った。三浦半島最高峰の山とある。といっても標高241mの低山に属する山だ。でも、標高の高さよりも山行の道に惹かれてしまう僕はロングトレイルができそうなこの山に対する興味がむくむくと湧いてきて、歩いてみたくなっていた。それで、大楠山と逗子をセットで行ってみようと思い至ったのである。

出発前夜、ザックに必要な道具を詰め込む。ただそれだけの地味な作業だけど、それがなんだか楽しいのです。まるで遠足の準備をしているときみたいなわくわく感がある。たぶん、そのときの僕の顔を知人が見たら、子どもみたいな顔をしていることに驚くと思う。

大楠山の準備で困ったことは地図がないことだ。大楠山は登山者の必携である山と高原地図がない(2018年現在)ので、ムック本に記されているマップを頼りに進むことにした。これがのちに困ったことになるとはこのときはまだ知らない。山行ルートは一般的なルートである前田橋バス停から大楠山山頂のピストンではなく、衣笠駅から前田橋バス停までの三浦半島の横断ルートを考えていた。できる限り、登りと下りはちがう道を歩きたいのである。

2018年5月27日。朝目が覚めたとき、乗ろうと思っていた電車の出発時刻に迫っていた。急いで着替えて家を出ると、水と食べ物とタオルを忘れていたことに気がついた。それらは出かけるときに冷蔵庫や箪笥から取り出して、持っていこうと思っていたものだった。いつもならそういう忘れ物のミスはしないほうなんだけど、もしかしたら、低山ということもあって心の隙があったのかもしれない。

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○ 8:37 衣笠駅
はじめて降り立つ街は、それがどんな街であろうと胸が踊ってしまう。同じ風景を行き来するだけのいつもの日常とちがって、未知の光景であふれている知らない街はそれだけで僕の心を弾ませるのである。

軽い準備体操をして最初の目的地である衣笠山公園に向かって歩き出すと、まもなくして右の足首に痛みを覚えた。この日の山行は長い距離を歩く予定だったのでさいごまで歩ききることができるのか、一抹の不安がよぎる。しかも標高300メートルにも満たない山だったこともあり、トレッキングポールは必要ないだろうと高をくくって家に置いてきていた。山は何が起こるかわからない。十全の準備に越したことはないのだとあらためて気づかされる。

歴史の古そうなアーケード街を通り抜けて県道26号線沿いを進み、衣笠山公園という標識を目印に道を折れると上り坂が始まった。はじめは住宅街の中を登っていたが、だんだんと山の景色に変わっていって草木の香りが鼻をつきはじめた。

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○ 9:00 衣笠山公園 入り口
登山者と思われる人は僕のほかにはひとりもいない。人影さえもほとんど見つけられない。朝の散歩中のおじいさんを見かけるくらいである。おはようございます、と挨拶を交わしたときが唯一、人間の息づかいを感じるときだった。それ以外の時間はガタンゴトンと遠くから聞こえる電車の音や、ホーホケキョ、チュンチュン、という種々様々な鳥たちの鳴き声、木の葉のこすれる音、風のざわめきが世界を形成していた。平穏と呼ぶにふさわしい世界が朝の公園にはできあがっていた。

○ 9:10 衣笠山公園 展望台
頂上のような場所にたどり着くと鉄骨でできた展望台を発見した。階段をつたって上まであがると見晴らしのいい景色が広がっている。横須賀方面を一望でき、眺めのいい景色を独り占めしているぞと思っていたら先客がいた。しかも恐ろしい先客だった。蜂である。ブンブンとおどろおどろしい羽音を鳴らしてこちらに近づいてくる。展望台は自分の縄張りだと叫ぶがごとくあの嫌な音をたてながら僕に向かって飛んでくる。こうなるともう景色を楽しむどころではない。蜂のことが気になって仕方がなく、落ち着いて眺めることはできなかった。僕は追い出されるように展望台を後にした。

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衣笠山公園の出口に向かって勢いよく下りているときに虫たちが僕のまわりに寄ってくる。さっきの蜂といい、さすがにうっとおしくなったので僕はザックから虫スプレーを取り出した。体じゅうにくまなく虫スプレーをかけ、ふたたび歩きだすととたんに小さな攻撃者たちは僕を避けるようになった。虫スプレーは虫にとっての警報みたいなものなのか、逃げろー、という態勢で彼らは僕の前から消えていった。衣笠山公園の出口について、こんどは大通りを挟んだ向かい側にある野山に入っていった。

一匹の蝶がひらひらと舞いながら僕を先導する(僕から逃げているだけなのかもしれないが)。まるで幻想郷に案内するかのようにひらひらと優雅に飛んでいく。そういうある種のメルヘンチックな世界に浸っているときに、とつぜん、ガサガサッと茂みのほうから音がしてびくっとなる。現実の世界に引き戻され、獣のことが頭をよぎり身構える。しかも僕の歩くスピードと一緒に、ガサガサッという音がついてくるのでいささか恐ろしくなってくる。結局、何も起こることはなかったけれど、その後も茂みの中を通る道が多くて、嫌になってくる。やっぱり樹木の間を練り歩く道のほうが楽しい。景色が抜けている気持ち良さもあるし、茂みとちがってとつぜん何者かが現れる不安も少ない。こういう原生林のような鬱蒼とした道を一人で歩いているといささか心細くなってくる。そして、いつの間にか蝶は消えていた。

途中、分かれ道にさしかかった。ムック本のマップを見ても、この分かれ道のことは触れてなく、困ってしまった。幸いにも電波は入るのでグーグルマップをにらんで先に進めそうな道を選択した。このときだけでなく、何度か道の選択を迫られるときがあった。ムック本は大ざっぱなルートしか書かれていないのでそれに頼りきってしまうととても困ることになる、ということが身に染みてわかった。

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しばらく歩くと野山を抜け出し、車道に出た。ここでもまた道に迷ってしまった。大楠山の登山口がわからない。ムック本には迂回路を通らずに車道から大楠山を目指せる道があると記されているので、それらしい道を探していたんだけど、ちっとも見つからない。来た道を折り返してもっと注意深く観察して歩いていると、やっと登山道らしき道を発見した。案内の矢印は一切なく、ふつうに歩いていたら見逃してしまうような入り口だった。入り口と呼ぶにはかなり心細い道で、だいじょうぶかな、と心配の種が心の中で広がっていく。藪の中を突進するような不安を覚える。しかし、迂回路を通ると、だいぶ遠回りになるし、道に迷って疲れが溜まっていた僕は早く山頂に着きたい気持ちもあって、その心細い登山道に侵入することにした。もし間違っていたら引き返せばいいだろうと覚悟を決めた。車道を走る自動車の中から僕の行動を見た人は、あの人は何を血迷ったことをしているんだろう? と思ったに違いない。

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不気味さと急勾配の坂で心拍数が上昇する。しかしながら、おそるおそる登っていると獣道ではなく人の手によって築かれた道だ、という感触を感じ、不安は少しずつ和らいでいった。だが、その安心を破壊するかのごとく正面のほうからガサガサッという音が近づいている。音はだんだんと大きくなってくる。何だ!? とびくびくしていたら、登山者だった。たぶん向こうの方も人がいることに安心したのだろう。ほっとした声でお互い挨拶を交わした。そこからまたひとりぼっちでしばらく歩くとゴルフ場のそばにさしかかった。マップを見ると大楠山の山頂まであと少しということがわかった。人とすれ違うことも増え、不気味さに覆われていた心の鎖も解けていく。そして一気に山頂まで駆け上がった。道の不透明さ、そして茂みの道の多さから、楽しさというより不気味さが勝った山頂までの道のりだった。そういうルートを選択した僕のせいでもあるんだけど。

○ 11:00 大楠山 山頂
三浦半島最高峰の山頂に立つ。房総半島や伊豆半島まで見渡せるということで楽しみにしていたけど、この日はあいにくの天気で遠くまで眺めることはできなかった。残念である。でもまあ、登山ではよくあることなのであまり気にはとめない。山頂というわりには人影も少なくて若い男女のペアが一組、老夫婦が三組、老人男性が一人といった具合だった。静かな山頂である。ベンチに腰を下ろし、駅のコンビニで買っておいたおにぎりとサンドイッチを食べてつかの間の休息に浸った。

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○ 11:20 大楠山 山頂出発
三浦半島の東側から大楠山に向かって登ってきたが、こんどは西側に向かって歩き出した。ほぼずっと下り坂がメインですたすたと下っていく。途中、子どもたちとすれちがう機会が多く、そのたびに子どもたちは大きな声で「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。彼らの生命エネルギーに満ち満ちた声を浴びていると、ちょっと元気をもらえる気がした。

鬱蒼とした藪の中を歩いているとトトロのような奇妙な生き物はほんとうにいるんじゃないかと思えてしまうから不思議だ。山には得体のしれない不可思議なものがいても、受け入れてしまえる何かがある。都会の街の中で暮らしているとトトロなんているわけないじゃないか、と思ってしまうんだけど。

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二人組の少年とすれちがった。シャツと短パンとリュックといういかにも少年らしい出で立ちで、二人で話しながら駆けるように山を登っていた。夏の少年映画のワンシーンを切り取ってそのまま抜け出してきたようなすがすがしい光景だった。5月の初夏の空気がそのときだけは8月の真夏の空気に変わっていた。足りないのは蝉の鳴き声だけだった。彼らも元気に挨拶をしてくれて、びゅーんと山頂に向かって登っていった。

○ 12:00 前田川遊歩道
大楠山の登山口にたどり着く。距離的なことに加え、精神的に不安に覆われていたことあり、ここまでとても長い道のりに感じた。西側の街並みは東側のそれとは空気が変わった気がした。東側は街の中に緑があるけど、西側は緑の中に街があるという感じ。自販機を見つけ、歩ききったご褒美としていつものコカ・コーラを飲もうと思ったけど、あいにくコーラはなかったのでマッチを飲んでゴールを祝った。そういえば、歩きはじめていたときに感じた足首の痛みはいつの間にか消えていた。

○ 12:10 前田橋バス停
十分遅れでやってきたバスに乗って三浦半島の海岸沿いをゆらゆらと走る。とてもいい眺めである。クーラーがほどよく効いた車内とかすかな振動が心地よさをもたらしてくれた。僕はうっすらと眼を開けて窓の向こうに見える海の景色に目をやりながら逗子駅へと向かっていった。

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○ 12:50 逗子駅到着
逗子に着くとお腹が空いていたこともあり、おいしそうなカレー屋さんに入った。「マッチポイント逗子店」というお店です。カウンターに腰を下ろし、たくさんあるメニューの中からナス挽肉カレー(870円)を頼む。エッグカレーとレトロカレーと悩んでいたんだけど、女性店員さんの「ナスはいま旬ですから」という一声で決めた。

雑誌に載っていそうな洒落た店内で天井にはシーリングファンがくるくると回っていた。運ばれてきたナス挽肉カレーはおいしくてガツガツと頬張ってしまった。あとでこのお店の口コミサイトを見たら、そんなに高い評価ではなかったけど、ふつうにおいしいカレーだと思いました。たぶん、レビューの星の数を先に見ていたら入っていなかったと思う。レビューの点数は僕の点数ではないわけで、こういう乖離は起こって当然なのであるのだが、やっぱり点数に促される自分がいることも否めない。でも、こういう出会いもあるので、気になったお店にぽんっと入るのもいいもんだとあらためて思う。味もさることながら、対応してくれた女性の店員さんも明るくていい人だった。こういうお店を知るだけで逗子はいい街だなと思ってしまう。単純な脳みそである。

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店を出たあと、せっかくなので逗子界隈を散策するついでに逗子海岸にも行ってみた。しかし、これは間違った選択であったとすぐに後悔することになる。広々としたビーチは当然だけど水着の軍団であふれている。登山靴に長袖長ズボンの格好をした僕はかなり浮いていて、その場にいることがいたたまれなくなり、すぐに引き返してしまった。まあ、そういうちょっとした悲劇もあったけど、海と山の匂いがある街はやっぱりいいなと思った。どちらの空気も混在している場所が僕はとても好きである。

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衣笠駅から大楠山ルートは、いい山行だったとは言えないし、正直、人に勧めたくなるルートではないかなと思いました。標高が低いこともあってあまり涼しくはないし、茂みは多いし、道に迷うことはあったし、車道を歩くことにもなるし、木々の間を抜けるような美しい景観は少ないし、ぬかるんだ道も多かったし、転げそうになったときも何回かあった(これはたまたまそういう時期に歩いた僕が悪いんだけど)。またこの山に歩きにいきたいかと問われると躊躇ってしまう自分がいる。でも、軽いドキドキ感や冒険めいた感情は湧いたし、歩ききったあとの達成感も少なからずあった。それにバスから眺める海岸の景色は美しかった。充実した一日であったことはまちがいない。そしてそういう日は、そうあるものではない。

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