吾輩は猫背である。

吾輩は猫背である。名前はまだ無い、わけがない。
どこで生れたかとんと見当はつく。広島である。何でも薄暗い病院でオギャーオギャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩の背中はこの時から立派に丸まっていたのだろう。

吾輩の事を知っている人間が見れば遠目で見ても認識できるであろう。なぜなら背中が折れ曲がっているからである。炬燵で寝ている猫のように。

吾輩は猫背だと自覚したのは小学5年生の運動会のときだ。行進の練習中に担任の先生に姿勢の事をこっぴどく指導された。しかし一向に背中の丸まり具合が治らない僕を見かねて、やがて先生は折れた。もしこの時先生の愛の鉄槌により強制的に姿勢を正されていたら、今の丸まった吾輩はいなかったと思う。

あるとき、このままではいけない、と一念発起した。「猫背が治る」という種の本を何冊か買って熟読したり、テレビで猫背の矯正法番組をやっていたら録画して正座(の気分)で見入ったり、本腰を入れて治そうとしたことがある。でも、猫背矯正法の効果があるのは一時的なもので、気がつけば秋の枯れ葉のように吾輩の上半身は折れ曲がっていた。

歩行中、窓ガラスに写る自分の姿を見ると姿勢の悪さを嘆いてしまう。これはみっともないと背中を張ってみるが、歩行を再開すると、また元に戻ってしまう。どうしようもない。

美しくなるために人間の世界にはお化粧というものがあるが、姿勢を正す事もお化粧だ、と断じても問題なかろう。直線に張った背中は、それだけで丸まっている人間を輝かせる。それはわかっているのだが、年季の入った猫背はこびりついた錆のように治らない。困ったものである。

f:id:amayadorido:20180525222242j:plain