おじさんにナンパされたときの話。

電車で知らないおじさんにナンパされたことがある。

僕よりだいぶ年配のNさんと一緒に帰っていたときのことだ。Nさんは会社の上司でもなく、学校の先輩でもない。お昼時によく出かける定食屋の常連のひとりでそこで知り合った間柄である。ふだんは寡黙だが、時折口にだす言葉はおもしろく、それでいてダンディーな方である。孤独のグルメの演者が松重豊からNさんに変わっても僕は違和感なく受け入れることができるだろう。おちゃめでおもしろくてかっこいい方である。が、今回お話するのはそのNさんのことではない。

その日の夜、定食屋の常連による飲み会があった。みんな会社も性別も年齢もばらばらの「ランチの常連である」という一点のみが共通項のメンバー構成だ。が、ふしぎと仲はよく気があうようで、たびたび飲み会が行われていた。その日も飲めや歌えやでひととおり盛り上がってから解散した。Nさんと僕は帰り道の路線が同じこともあり、一緒の電車に乗って帰ることになった。

事件が起きたのは、その車内でのことだ。

Nさんは東京の中目黒で育った。
お酒も入っていたせいもあるのだろう。Nさんは昔を懐かしむように「中目黒は今みたいな街ではなかったんですよ」と吊り革につかまりながら酔いどれ口調で話をされていた。すると、そのときである。僕たちの目の前に座っていた男性が、一瞬の空いたすき間を狙って割り込んでくる車のように話しかけてきた。

「昔はよかったんだけどさ。今はすっかりオシャレになっちゃってダメだね」

その言葉はまちがいなく僕ら二人に目がけて飛んできたものだった。見ると背広を着た50代と思しき方が僕らのほうを向いている。顔を上げたときに黒縁のメガネがキラリと光る。とつぜんの出来事に僕ら二人がとまどい驚いていると、

「ごめんね、どうしてもナカメの話が気になっちゃって。中目黒は赤提灯の町だったんだよ」

と、ひるむことなくつづけて話しかけてきた。そのあとは吊り革に全体重をあずけるようによれかかる僕ら二人と席に座るおじさんという奇妙な三角関係ができあがり、会話は途切れることなく進行していった。話を聞いていると、どうやらこの方も生まれたときから中目黒に住む生粋の中目黒人で、昨今のオシャレスポットと化した中目黒を嘆いている一人であった。それからといういうもの、Nさんとおじさんのナカメトークならぬ地元トークに花が咲く。僕は比較的だまって聞いている。周りから見れば上司と部下の関係なんだろうという光景である。だが、三人とも会社は別だし、座っているおじさんに限っては名前も知らない。

終点の中目黒駅に着いたとき 「お兄ちゃん、このあと飲みに行くかい? 中目黒のほんとうのいい店を紹介するよ」とおじさんに誘われた。その日のイベントはひととおりこなして精根尽き果てていたし、しかも、知らないおじさんに声をかけられても着いていってはダメよ、と母に口すっぱく言われて育った僕は困ったぞと哀願の目をNさんに投げかけると、Nさんは「僕は妻が待っていますんで。じゃ」とそそくさと隣のホームにきた東横線に乗っていってしまった。

まあ、こんなことも人生でそうそうないことだし、何かに導かれた縁かもしれない、ということで腹を決めて名前も知らないおじさんに着いていくことにした。運命の赤い糸ではないことだけは祈っておいた。

一件目に連れていってもらったのは中目黒駅から徒歩3分くらいの歴史の古そうな居酒屋である。外観からはいかにも昭和時代から営業している様子が見てとれた。おじさんに促されるままお店に入った。

僕はお酒が好きではなく、飲みの席ではウーロン茶かジンジャーエールのどちらかしか頼まない人間で「ビールでいいよね?」と上司に言わても「ウーロン茶でお願いします」というめんどくさい性質を持っているんだけれど、このときばかりはおじさんが「ビール二つ」と言っても断ることはできなかった。数年ぶりにビールを味わった夜は、名前も知らないおじさんと過ごした夜だった。峰不二子とカクテルで乾杯する一夜なら喜んで飲むんだけれど、現実はそう甘くできているものではない。

そのときにしたおじさんとの会話はほとんど覚えていない。とにかく仕事のことを話したことだけは覚えている。現在の仕事のこと、キャリアのこと、悩みといったことなど、上司や同僚、友だちにさえ話さないようなことをおじさんにはすべてを打ち明けるように吐き出していた。名前も知らない間柄だからこそ、なんでも言えた。

久しぶりの酔いどれ気分に浸りながら、居酒屋を出たあとは寿司屋に連れていってもらった。「月に1回くらいは来るかな」とおじさんは言っていた。カウンターに座るなり、おじさんの寿司講義がはじまった。このときのいくつかの会話はまだ覚えている。

「かんぴょうは、<巻き>じゃなくて<握り>がうめえんだよ」
「うにはすだれにかぎるね。うにっつったら、ふつう海苔で巻くでしょ? そうじゃねんだよ。すだれね、す・だ・れ」
「ここの大将が考案したんですか?」と僕。
「ちがうよ。俺が考えてマスターに頼んだんだよ。 ね、マスター? 発想だよ、発想。わかる? 発想だよ」

おじさんは寿司屋の職人を大将ではなくマスターと呼ぶ。
そして口グセのように「発想だよ、発想」という言葉を繰り返していた。

「どうだ、ここの中トロのサシ、うめえだろ。発想だよ、発想。わかる? 発想だよ」
「おいしいっす。めちゃめちゃうまいっす。発想すごいっす」

と、なんだかわけのわからない寿司講義を受け、たくさんご馳走になった。

寿司屋を出るとおじさんと別れのときがきた。
「たぶん次すれちがっても、忘れていると思うけどごめんねー!」 と意気揚々におじさんは家族の待つ自宅に帰っていった。 僕もタクシーを呼んで自宅に帰った。

けっきょく、おじさんの名前を知ることはなかったし、連絡先も交換しなかった。何かが始まる前に僕らは別れたのだ。でも、それできっとよかったのである。

出会いと別れをいちどに経験することになったこの日の夜。
おじさんと過ごした時間は人生のタイムラインでみれば流れ星のようにほんの一瞬の出来事だった。 でも、それはまるで北極星のように煌々とした出来事でかんたんには忘れられない時間になった。 こういうおもしろいおじさんも住んでいる中目黒。街の住民の人間くささを知り、前より、中目黒のことがちょっと好きになった。 たった一人でも、街の印象は変えられるんだということを知った。

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