なんども歩きたくなる山。【陣馬山〜高尾山】

○ 8:10 陣馬高原下バス停
2018年5月11日土曜日。晴天。僕は山間を走る早朝のバスに揺られていた。一週間の仕事を終えた金曜日の夜、山にまみれたい気持ちがうねるように高まって、あしたは山に行こうと決めたのだ。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからだ」という有名な問答があるけれど、たとえ目の前に山がなくても行きたくなるときがある。あらゆる生命が集まってくるように、山には虫だろうが獣だろうが人だろうが現世に生きとし生けるものたちを引き寄せる力があると思うのです。

陣馬山を目指すときの一般的なスタート地点である陣馬高原下のバス停についたとき、時刻は8時10分だった。バスから降りると背筋がぴんと伸びるようなひんやりとした空気が僕を迎えいれてくれた。5月の奥高尾は新緑に包まれたきもちのいい朝に仕上がっていた。都心の街にはつくることのできない朝の空気がそこにはあって、この空気を求めに僕は朝の5時に起きてやってきたのである。

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渓流のせせらぎを耳にしながら舗装された道をゆっくりと登り、まもなく登山道へと入った。僕の目の前にはトレッキングポールを手に持った一人の女性が慣れた足取りで登っていた。その前には高齢者のグループの方々が声を掛け合いながら登っていた。山を登っているといろんな人と巡り会う。はじめのころに出会う人、休憩中に出会う人、山頂で出会う人、道の途中で再会する人、おわりのころに出会う人、出会いという点で登山は人生と似ている。

木洩れ日の中、ゆるやかな上り坂を過ぎると急斜面があらわれた。かろやかにステップを踏んでいた足取りもとたんに重くなって汗がどっと吹き出てくる。息も切れてくる。いつの間にか僕のまわりにいた登山者の姿は見えなくなり、山林の中で一人きりになっていた。じぶんの呼吸が大きく聞こえる。鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。びょーんと伸びた背の高い木々の枝葉からこぼれる光と影が織りなす土の斜面がとても綺麗だ。自然がつくる絵画のような美しい光景を目にしながら僕はいったん足を止めた。登山は競争ではない。タイムアタックでもない。立ち止まって休んだほうが楽しめる。そう自分に言いきかせて僕は休んで、また歩き出す。

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グループで登山に来ている人たちを見かけると楽しそうでうらやましいと思うこともある。でも、ひとりきりの登山だって決して退屈ではない。まわりからみると、一見、無口でつまらなそうに見えるかもしれないけれど心の中ではけっこう自分と会話をしているのです。家にいるときよりも、たぶん話しているだろう。写真や動画を撮るときを抜きにすればスマートフォンに触ることはないし、テレビだってもちろん目にすることはない。本を読みながら歩くこともない。自分との会話を妨げるものは何ひとつないのである。ひとりきりの登山者は内なるじぶんの声に耳を傾けながら、ひとりてっぺんに向かって歩いている。

自然に満たされた空気を胸いっぱいに吸う。深呼吸がきもちいい。しかし、山を登るということはきもちいい瞬間だけではなくて、つらい時間もあたりまえのようにある。むしろ、山頂まではそっちの時間のほうが多いかもしれない。傾斜のきつい道を登っているときはバスケットの試合を終えたときのようにたくさんの汗が全身から流れ出る。首に巻いたタオルがここぞとばかりに大活躍している。そうやって大量の汗を流しながら、一歩一歩登っていくとだんだん視界がひらけてきて山頂に着いていた。

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○9:10 陣馬山 山頂 
陣馬山の山頂は好きな山頂のひとつです。なによりも広範囲にわたってひらけていて、のびのびできる解放感がたまらない。しかも、この日は天候にも恵まれ、富士山がくっきりと見えた。朝から何も口に入れてない僕はこの山頂で朝食をとることにした。

綺麗に浮かび上がっている富士山を目にしながら「信玄茶屋」で注文した陣馬そばをいただく。富士山の景色がそうさせるのかわからないけれど、とにかく朝から何も口に入れていない僕の体にとってとてもうまい蕎麦だった。うまいだけじゃなく、やさしい味もした。それはたぶん登山者を受け入れるおやっさんの味だ。山の上で蕎麦を召し上がる朝は、喫茶店で熱いコーヒーとタマゴサンドウィッチをいただく朝と同じくらいたまらない時間である。首をぐるりとまわして富士山からちがうところに目を移すと山頂の片隅で日光浴をしている男性を見つける。太陽と富士山に向かって寝そべっている姿がとてもここちよさそうだ。山頂にやってきた人たちが寝っころがってるおじさんを見つけては羨ましそうに見ていた。 

朝食をいただいてから用を足しに便所に行った。小便をしているときに数匹の虫がブンブンと飛び回って寄って来る。僕が微動だにできないことをいいことに、虫たちは僕の周りをおちょくるようにぐるぐる廻っている。露わになっている下半身が刺されなければいいけれど、と一抹の心配をしながら用を足した。しかし、こういうときに限ってなかなか出なくて困ったものである。まあ、刺されたりはしなかったのでよかったのだけれど。ここで致命的な負傷をしてしまったら、本日の山行プランが台無しになってしまうのでヒヤヒヤものであった。

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○ 10:00 陣馬山 出発
陣馬山からは平坦なコースかもしくは下り坂がメインの道になってくる。陣馬山から高尾山の間では陣馬山がいちばん標高が高いため、それからの道は上り坂が少なくなり、楽に歩ける道が多くなるのです。ここからはもう森の中の散策気分である。僕はこういうゆるい道がかなり好きで、歩いているだけで気分がよくなってくる。

向こうのほうからものすごいスピードで迫ってくる人がいる。はじめに目にしたときは点のような存在だったけど、あっという間に近づいてきて正体を認識できた。それは真っ赤なTシャツを着た黒人のトレイルランナーで、水のペットボトルだけを片手に持って山の中を天狗のように疾走していた。すれちがうとき「コンチャ!」と大きな声で挨拶をくれたので僕も「こんちは!」と元気よく返した。一瞬の出来事が過ぎたあと、また平坦なコースを歩きつづける。

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○ 10:25 明王峠
僕は山が好きだ。どうしてだろうと思う。自然が好きだという単純な理由もある。でもそれとは別に、山は肩書きを脱いでいる人たちの集まりでもあるから好きなんだとも思っている。僕は呑めないくせにバーという空間も好きなんだけど、バーも肩書きを脱いでる人たちが集まってるから好きなのです。一人の人間として関わり合うことができる。僕はそういう場所がとても好きで、好んで出かけるのですが、山にも似たようなところがある思うのです。土の絨毯を歩きながら、そんなことを考えていた。山行時間を確認し、明王峠をすたすたと通り過ぎる。

○ 11:30 景信山
景信山は眺望が良くてパノラマのように東京の景色を広く見渡せる。でも、なぜだろう。陣馬山で富士山と対面したときのほうが感動はあった。もちろん僕個人の感想なので人によっては景信山の方が好きだという人がいらっしゃることも理解しています。そんな僕の景信山での楽しみは眺望よりも、なめこ汁である。とてもうまくて一杯250円。汗をかいてる体がよけいに温まるんだけど、やさしい温まり方でほっこりするうまさだ。コンビニで買っておいたおにぎりと一緒になめこ汁をおいしくいただいて景信山を後にする。

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○ 12:20 小仏峠
ウッドベンチに二人組の女性が座っていた。盗み聞きするつもりはなかったけれど、ひと息ついていたら二人の会話が耳に飛び込んできた。正確に言えばひとつのフレーズが聞こえてきた。
「私の人生で山から富士山を見ることがあるなんて」
前後の文脈をきちんと聞いていなかったので、その女性がどういう思いでこの言葉を発したのかはわからないけれど、そこには少なくとも感動の響きのようなものが含まれていた気がした。

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○ 12:35 小仏城山
城山あたりから登山者の格好をした人のほかに軽装の人たちをちらほらと見かけるようになります。駅前の繁華街のような賑わいが出てきて一気に都会めいた山になる。子どもたちや青年たちの声が楽しそうだ。ここまでくれば高尾山はもう目と鼻の先である。僕は休憩もほどほどに先に歩を進めた。

背中越しに聞きおぼえのある声がふたたび聞こえてきた。「コンチャ!」。先ほどすれちがったはずの真っ赤なTシャツを着た黒人のトレイルランナーがこんどは後ろから僕を颯爽と追い抜いていった。おそらく陣馬山で折り返してきたんだろう。すさまじい体力とじょうぶな足腰をおもちの方である。彼は風のように通り過ぎ、あっという間に小さくなっていった。

それからしばらく歩いていると、こんどは長髪のお年を召した登山者とすれちがった。長い髪は肩から胸のほうまで垂れ下がり、あますところなく白髪である。手荷物も少なく、近所に散歩に来たような格好で軽快に歩いていた。登山をしていると、ときどき、そういう方をお見かけするが、山の中でそういう姿をした人を目にすると仙人に思えてしまうのは仕方がない。

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○ 13:10 高尾山 山頂
陣馬山から歩いてきた登山者をさいごに待ち受けるのがきつい石段です。どうしてこんなに高いんだろうと思うくらい一段一段の高さがけっこうある。5時間にわたって長い道のりを歩いてきた人間にとってこの高さのある石段は膝にくる。とはいえ、引き返すという選択肢は万に一つもないので膝にがんばれと言いながら登る。山頂のほうから聞こえてくるにぎやかな声がだんだん大きくなっていく。もう少しだ、と自分を励ましているうちに山頂に着いた。

高尾山の山頂は世界でいちばん登山者の多い山とあってものすごい人であふれていた。ビニールシートを敷いて昼間からビールをあおっている一団もあったりして、まるでお花見のシーズンのように人でごった返している。僕はその隙間をかいくぐって自動販売機に向かい、コカ・コーラを手にとる。なぜだかわからないけれど、山行の目的を達するとコーラで乾杯するクセがついてしまっているのである。ご褒美と呼ぶには安価な一杯かもしれないが、歩ききったあとにコーラを片手に腰を下ろし、何を考えることなく飲んでいると至福の風を運んでくれるのです。僕にとっていちばんコーラがうまくなる瞬間です。そうしてひと息ついたら高尾山口に向かって出発。この日は4号路と2号路を通って下山しました。

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○ 14:10 京王高尾山温泉
登山と温泉。この二つはよくセットで語られることが多いように下山後の温泉は格別である。コーヒーとサンドウィッチのように、枝豆とビールのように、登山と温泉はささやかな幸せをもたらしてくれる黄金のコンビなのである。

向かったのは高尾山口駅に併設されている『京王高尾山温泉』。高尾方面の山に登ったときはかならずと言っていいほど立ち寄る温泉です。とくに露天の景色が好きでまったりと湯に浸かったり、外気にあたったりして、ぼーっとしているだけでなんだか心地よくなってくる。これ以上ないといいたくなるくらい、きもちのいい昼下がりである。小一時間ほど、まどろみのような時間を味わって帰宅の途につきました。

陣馬山から高尾山の山行は、歩くことと、自然に包まれることが好きなら、とてもいい道だと思います。都心から交通費もそれほどかからないし、緑の空気を手軽に味わうにはとてもいいハイキングコースだと思います。

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