体に火がついた650円の湖南料理。【紅龍】

昼下がりに空っぽになったお腹を満たすため、神楽坂の路地を歩いていると「1時よりランチメニュー全品★650円★」という看板を見つけた。何も装飾されていないテキストだけのシンプルな看板である。が、そのワンフレーズは金欠の僕の胸にぐさりと突き刺さった。悩むことなくするするすると階段を上り、扉をあけた。

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窓から射し込む光と薄暗い照明によって作られた店内は、昔の探偵ドラマのワンシーンのような趣がある。いかにも松田優作が腹ごしらえをしていそうな空間だ。入口付近の上部にテレビが設置され、お昼の番組が垂れ流されている。カチャカチャと食器を洗う音が遠くから聞こえてくる。客席はほとんど埋まっていた。昨今の流行である洗練された店内とは異なり、昭和の時代を色濃く残すお店であった。僕は店のおばさんに促されてテーブル席に腰をかけた。

ランチメニューは表面と裏面のA4一枚の紙で作られていて片方の面には「湘南料理」とあった。湘南の海の幸が照らす青々とした明るさはどこにもないお店の雰囲気に驚いてもう一度目を凝らしてみると「湖南料理」と書いてあった。あとで知ったのだけど「湖南料理」とは中華料理で一番辛い料理なのだそうだ。僕は初めて目にした四字熟語に心を奪われ、その中から「よだれ鶏」を注文した。よだれが出るほどおいしいのだろうか。

注文してから本を2ページも読み進まないうちに「よだれ鶏」が運ばれてきた。見た目は棒棒鶏に似ている。早速食べてみると、うまい。が、辛い。これは辛い。そのときの僕は前知識が一切なく油断があったせいもあっただろうけどゴホッと咳き込んでしまった。辛さを中和するためにあわてて白米を口の中に突っ込む。うん、うまい。ほどなくして顔の表面が熱くなり、ポツポツと汗が吹き出てくる。二口目をいこうと皿を探ると細切りされたきゅうりが隠れていた。嬉しい付け合せである。鶏ときゅうりを箸でつまんで一緒に頬張るときゅうりの冷えた食感が辛さを緩和し、さらにうまくなった。なるほど。

しかしながら、口の中が空っぽになると辛さだけが強く残り、しかも、その勢いは時間がたつほど増していく。気がつけば鼻頭に汗がたっぷりと吹き出ていた。紙ナプキンで汗を拭きながら、コップに注がれた水をぐっと飲み込む。空になったとみるやいなや、お店のおばさんが水を注ぎにくる。慣れた手つきで水を注ぐと他のテーブル席に移動し、同じように空になったコップに水を汲んでいる。僕は視線を戻し、鶏ときゅうりを繰り返し口の中に入れる。熱く蒸されたサウナ室の中にいるように汗がだらだらと流れていく。やがて、辛さが喉を突き抜ける。紙ナプキンを手に取り、鼻や頬や額に流れ出た汗を拭く。一回では収まらないので何度も拭く。遠くのほうから食器を洗う渇いた音や中華鍋を振るう音が聞こえてくる。扉の向こうからはお客さんが次から次へとやってくる。

完食してしばらくたっても口の中は火を噴いていた。このお店の料理のボリュームはそれほど多くないと思う。でも、満足感はある。本場感がある(中国本土で食べたことはないけれど)。大量に作って大量に食べてもらえれば満足だろうという類の中華料理屋ではない。650円の対価として、この辛さとうまさのクオリティはとても満足できるものであった。疲れていた体が火照った体になって僕は神楽坂を後にした。

お店の名前は「紅龍(ホンロン)」です。

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